東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-24)
*弘仁7年(816)
2月
・最澄、空海より借りていた『新華厳疏』『烏瑟渋摩法』などを返還。
これ以降、書状のやり取りや両者が顔を合わせることはない。
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5月1日
・最澄がかつて愛弟子で空海の許にいる泰範(たいはん)に宛てた手紙。
最澄は、孤軍奮闘、頼りは天台宗で最初に沙弥となった光定のみという状況。
「老僧最澄、生年五十、生涯久しからず。住持未だ定まらず・・・独り一乗を荷(にな)いて俗間に流連(りゆうれん)す。ただ恨むらくは、闇梨(泰範)と別居することのみ。
往年期するところは、法のために身を忘れ、発心して法を資(たす)けんとなり。
すでに年分を建て、また長講を興す。
闇梨の功は片時だも忘れず。
また高雄の灌頂には、志を同じくして道を求め、倶(とも)に仏慧(ぶつけい)を期せしに、何ぞ図らん、闇梨は永く本願に背きて、久しく別処に佳せんとは。
蓋し、劣を捨てて勝を取るは世上の常理ならん。
然れども、法華一乗と真言一乗と何ぞ優劣あらんや。
同法は同じきを恋う。これを善友という。
我と公とはこの生に縁を結び、弥勒に見(まみえ)んことを待つ。
もし深き縁あらば倶に生死に住して、同じく群生(ぐんじよう)を負わん・・・。」(弘仁7年5月1日。『平安遺文』4411号)
2人で共に苦労した日々を思い出させ、二世を契った者同士ではなかったかと、師弟というより自分を捨てた恋人へ宛てた手紙の如く、赤裸々に真情を吐露している。
この問いに対し、空海は泰範の返書を代筆して答える。
「権実(ごんじつ)別ちがたく、顕密濫(らん)じ易し。
知音(ちいん)にあらざるよりは、誰か能(よ)くこれを別たん。
然りといえども、法応の仏、善なきことを得ず。
顕密の教、何ぞ浅深なからん。
法智の両仏、自他の二受、顕密説を別にし、権実隔てあり。
所以に、真言の醍醐に耽執(たんしゆう)して、未だ随他の薬を噉嘗(たんしよう)するに遑(いとま)あらず・・・。」(『平安遺文』4412号)
最澄は、法華一乗を唱える天台宗と、真言一乗を唱える真言宗とは優劣がないという協調路線に立って説得を試みた。
しかし、空海はこれを一蹴、天台宗を含む顕教は権(ごん、かり)にして浅い教えであり、真言宗(密教)の方が実にして深い教えであると、その優劣を明言する。
最澄は、恵果(けいか)第一の弟子である。
実体験なしに密教は会得出来ぬと言う空海の権威主義的な言説に対し、強い反感を抱いたであろう。
この書簡の往復が両者の交流の最後となる。
・最澄は、空海と絶交したこの年、南都大安寺での講筵を済ませ東国に赴く。
美濃~信濃~上野・下野に至り、特に北坂東に最澄自身によって天台法華宗の種子が播かれた。
東国は征夷や天災の影響で荒廃していた。
また、東国には最澄と親しい僧侶、道忠がいた。
彼は、もと鑑真の弟子で、下野国大慈寺、上野国緑野寺などを拠点として、多くの弟子を擁していた。
最澄の布教は地方の僧をのみならず土豪・有力農民に感化を及ぼした。
天台新宗に身を託そうという者が比叡山寺を目指すようになり、近い将来には、地方に天台の別院(末寺)が成立する道をも拓いた。
寺院組織における本山と末寺の関係は、天台・真言の宗派によって初めて形成され、その基盤として寺領庄園が拡大されていく。
最澄の東国での布教を契機として、彼は南都の仏徒との間に教義上の激しい論争をくりひろげる。
最初に最澄に挑戦したのは、北坂東で教化していた会津の法相(ほつそう)宗の僧徳一(とくいつ)
で、弘仁12年(821)まで猛烈な論争(三一権実諍論さんいちごんじつのそうろん)を展開していく。
この論戦を通じて、最澄の天台的立場が外部に対して明確なものになった。
法相家が固持する五性各別説(仏教修行者をその能力によって五種に分け、その差異はいかんともしえないとする)に対し最澄は、一切の有情が皆成仏するという天台によって力説されたテーゼを対置した。
この論争は、最澄にとっては天台宗独立のための戦いであった。
この時期、大同2年(807)以来の天台宗年分度者の半数は離散し、若干の者は、最澄の当面の対立者である法相宗に身を寄せていた。
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6月
・空海に対し、紀伊国の高野山に金剛峯寺を建立する許可がおりる。
空海は山林修道の体験と教団確立の念願から、新宗派の本拠地を求めていたが、ようやく自分が選び、嵯峨天皇から紀伊国伊都郡の高野山が与えられる。
弘仁9年(818)とその翌年には、空海は自ら山嶺ふかく入り幾棟かの道場を設けている。
山岳の寺院という点では最澄の比叡山寺と同じだが、高野山は平安京から遠い。
しかし、空海は、高雄山寺を布教と政略の基地にしている。
高野山経営には勅命で国司が力を入れており、空海は、その広大な山麓の各地に多くの寺領庄園をもうけうることを見通していたと思われる。
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8月1日
・この日、因幡・伯耆両国の俘囚が入京して「小事」を「越訴」した際、国司らの「撫慰」が方法を誤り、「判断」(法に基づいた判定)が道理に合わないからであると譴責し、今後も同様な事案が発生した場合には、夷俘専当国司を処罰するという勅が出される(『類聚国史』巻190)。
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10月13日
・新羅からの漂着民に帰化を許可する。
新羅の憲徳王7年(815)~11年(819)、新羅西辺の草賊(盗賊)の反乱が相次ぎ、また飢饉のため新羅全土が騒乱状態に陥いる。
新羅からの漂着民は日本に殺到するが、この日をはじめ、翌8年2、4月、9年正月と、漂着してきた数十人から百数十人規模の集団の帰化を許可している(『日本紀略』)。
これはいずれも宝亀5年の指示に従ってなされた処置であろう。
宝亀5年の指示:
新羅からの漂着者に対し、帰化の意思の有無を確認し、意思の明瞭でない者は基本的に全て追い返す指示。
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