2011年11月25日金曜日

弘仁4年(813) 「中外無事」により大幅軍縮 「兵士を一人点ずれば、一戸が滅びる」 専当国司制導入 出雲俘囚荒橿の乱

東京 北の丸公園(2011-11-22)
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弘仁4年(813)
2月25日
・この日付けで、不作の年には公民も俘囚も同じく災いを被るのに、賑給(しんごう、国家が食料などを支給すること)の際には俘囚は対象外となっている。
飢饉の苦しみはどちらも同じであるから、それを救う恩恵には中華と蛮夷の差別があってはならない。
今後は公民に準じて賑給の対象とせよ、という法令がでる(『日本後紀』弘仁4年2月戊申条)。
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5月
・この年、文室綿麻呂は2度目の征夷将軍となって、小野石雄らと共に「賊首吉弥侯部止彼須可牟多知(きみこべのとひすかむたち)」(2人分の人名とみられるが、どこで区切るかは不明)らの反乱を鎮圧(『日本紀略』弘仁4年5月辛巳条、『日本三代実録』貞観12年3月29日辛巳条)。
弘仁2年の征夷によって蝦夷支配が直ちに安定したわけではない。
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6月
・最澄は天台宗の存亡を賭けて大乗戒壇の設置を目指すことになり、この月、興福寺での法論を皮切りにして、護命(ごみよう)らを代表とする法相宗・僧綱との間で、職烈な論争を展開。

この年、最澄が経典の貸し出しを願った際、空海は、「密教の教えの本質は文字にあるのではなく、師から弟子への心の伝達にある」(師資相承の重視)として、最澄の依頼を謝絶
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8月8日
「中外無事」になったので、西海道の軍団兵士の数を、大幅に減員する(『類聚三代格』巻18)     この年、西海道の北半6国では、奈良時代以来維持されてきた軍団兵士制が半減される。

これまでの軍縮経過
西海道などの軍事的に特殊な地域以外は、宝亀11年(780)3月に、律令軍団制に大きな修正が加えられた。
その頃、軍団兵士を国司や軍毅が私的に使い、きちんとした訓練をしないので実用に耐えない、という実状があったので、これを減員し、その代わりに富豪で弓馬の術に秀でた者を徴発する方向への転換を図っていた(『続日本紀』)。
その後、延暦11年(792)には、軍団兵士制が全廃される。
但し、西海道の北半では、正規軍同士の対決を想定した軍制を布き続けて、防衛体制を維持しようとした。
この年、その西海道でも、この年、大幅な兵士減員が実施され、最終的には天長3年(826)12月3日、西海道の軍団兵士制も廃止される。

この時の官符は言う。
「兵士を一人点ずれば、一戸が滅びる」
この頃の西海道は、連年の飢饉・疫病に悩まされていたから、一般の庶民の中から兵士を徴発するのは困難を極めたと思われる。

大宰府では代わりに衛卒(えいそつ)200人をおいて、対外的な緊急事態に備えることとし、他に主として大宰府や国府の警備に当たらせるための統領・選士を、「富饒遊手(ふじようゆうしゆ)の児」(富豪の子弟)の中から選んで充て、給与も支払う事にした(『類聚三代格』巻18)。
最終的に防備すべきものが、こうしてきわめて局限された形で示された。
大宰府では、400人の選士を8人の統領が率い、西海道の諸国島では、総計1,320人の選士を34人の統領が率いることとなった。これはすべて四交代制だから、実際に警備に就いている人数は驚くほど少ないとも言える。

対外関係に規定され、帝国たることの裏付けとして維持されてきた律令軍団制は、こうして最終的に放棄された。
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11月21日
・この日付けの勅によると、諸国司が夷俘の訴えをいつまでも処理しないために、夷俘が愁いと怨みを募らせて、反逆を起こすことが問題となっている。
そこで、播磨介の藤原藤成以下、備前介・備中守・筑前介・筑後守・肥前介・肥後守・豊前介らに、夷俘に厚く教喩を加え、彼らの申請に速やかに処分を与えることを命じる。

その際に、「もし撫慰(慈しみいたわること)方に乖(そむ)きて、叛逆を致し、及び京に入りて越訴せしむれば、専当の人ら、状に准じて罪を科さむ」という罰則が定められている(『類聚国史』巻190弘仁4年11月庚午条)。
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11月24日
・3日後の24日、再度勅が発せられ、夷俘専当国司を置き、全国の国司の介以上が一斉に夷俘専当国司に任命される(同年11月癸酉条)。

移配蝦夷は夷俘専当国司-夷俘長(俘囚長)という組織の下で支配されることになる。

この頃、移配蝦夷が国司に対して盛んに訴えを起こしていたこと、それにもかかわらず放置されることが多かったので、入京越訴や反乱を起こしていたことが知られる。
そこで移配蝦夷の訴えに迅速に対応するため、専当国司制を導入し、責任の所在を明確にしたと思われる。
中央政府は夷俘が国司に対して訴えを起こすことは正当な権利として認めており、それを迅速に処理しない国司に非があると見なしている。
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12月末
・出雲俘囚荒橿(あらかし)の乱。遠胆沢公母志(とおいざわのきみもし)が討伐の勲功により外従五位下を授けられる。

俘囚の最初の大規模反乱
荒橿(あらかし)という俘囚が反乱を起こし、俘囚吉弥侯部高来・吉弥侯部年子らの妻子を殺害し、その被害は出雲国の意宇(おう)・出雲・神門(さんど)の3郡に及ぶ。
詳細は不明だが、移配蝦夷同士の対立が背景にあったようだ。

俘囚たちは郡郷の正倉や富豪層の倉を襲撃して、稲穀を略奪。
これら俘囚の乱に対して受領は、捕亡命臨時発兵規定によって勇敢富豪層と反乱に荷担しなかった俘囚たちを動員し、容赦なく殺戮。
俘囚の中には反乱勢に殺された人々もおり、受領に従って反乱鎮圧に手柄を立てた者もいる。

延暦19年(800)、あまりに手厚い優恤政策をとる出雲国受領に対し、政府は、「厚遇を長く続けると、待遇水準を下げたとき俘囚はかえって怨み心を抱くことになるから、今のうちに厚遇をやめるように」と命じていた。
優遇措置をやめた受領のときに反乱が起きる。
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