2011年11月4日金曜日

延暦20年(801) 坂上田村麻呂による延暦20年の征夷終る

東京、北の丸公園 千鳥ヶ淵(2011-10-31)
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延暦20年(801)
・この年、最澄が、南都の各宗の高僧10人を招いて諸宗の立場からの法華経解釈を講演してもらう法華八講を行う。
南都の憎たちは、快く参加。この時点では、比叡山と南都とは相対立していない。
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・唐、杜佑の『通典』完成。
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1月
・この年正月、宮中でひらかれた祝宴の席で、桓武天皇は、おりしも降りしきる春の雪をみて、
「梅の花恋ひつつをれば降る雪を花かも散るとおもひつるかも」
と歌う。
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2月24日
・桓武、征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀を与える(『日本紀略』)。
動員された征夷軍は4万人、軍監5人、軍曹32人(『日本後紀』弘仁2年(811)5月壬子条)。
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6月
・今後、班田収授は「一紀(12年)一行」とすると声明。
法典にも明記される。
これまでどうにか守ってきた6年毎の班田収授を維持する能力を失ってたことを示す。
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8月
藤原葛野麻呂(かどのまろ、小黒麻呂の息、北家)・石川道益をそれぞれ遣唐大使・副使に任命。
3年後、唐に渡る。

大宝の遣唐使(702年出発)以来、10数年毎に派遣され続けてきたが、宝亀10年(779)に唐使孫興進らを送る使いを進発させた後、この年(801)の遣唐使任命までは22年の間があき、その出発(804年)から次の遣唐使が任命される承和元年(834)までは33年の間があいている。
唐の帝国構想の中に留まることの利点が目減りしていたことを示す。

重祚した称徳天皇を除けば、歴代の天皇が即位後10年以内には遣唐使を派遣しているのに、桓武天皇は即位後21年目にして初めて遣唐使を派遣しようとした。

遣唐使不派遣の意義は、唐帝国の埒外に自らの天下を構想しようとしたことを示している。
唐と付き合わなければ、朝貢しながら朝貢を受けるという複雑な事態を避けることができるし、唐に対する時と国内及び新羅や渤海に対する時とで顔を使い分けなければならないという屈辱を免れることもできる。
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9月27日
・この日、坂上田村麻呂から戦勝報告
「臣聞く。云々。夷賊を討伏す」(『日本紀略』)と記すのみ。
蝦夷の大規模な反抗は鎮静し、律令国家の「帝国」版図拡張政策は終了
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10月28日
・この日、坂上田村麻呂が入京して天皇に節刀を返却(『日本紀略』)。
7年前の10月28日は、同じように戦勝報告を受け平安京遷都の詔が発せられた日。

『日本後紀』の欠失のため詳しい経過は不明であるが、この征夷によって胆沢・志波の蝦夷は完全に制圧された。
また胆沢・志波の東に当たる閉伊(へい)村(現岩手県宮古市など)に対しても征討が及んだようである(『日本後紀』弘仁2年12月甲戌条)。

またこの年、移配蝦夷の田租を免除する法令が出されているので、前回の征夷と同様に多数の蝦夷が諸国に移配されたと考えられる(『類緊国史』巻83弘仁7年(816)10月辛丑条所引延暦20年格)。
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11月7日
・この日、桓武天皇が、
「陸奥国の蝦夷等、代を歴て時を渉りて、辺境を侵乱して、百姓を殺略す。
ここを以て従四位上坂上田村麻呂大宿禰らを遺して、伐ち平らげ掃き治めしむるに」
云々という詔を発して、田村麻呂に従三位を授け、副将軍にも位を授ける(『日本紀略』)。

同日、出羽権守の文室綿麻呂が正五位上に叙されている(『公卿補任』大同5年条)。今回の征夷に参加していたとみられる。
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