東京 北の丸公園(2011-11-16)
*永禄10年(1567)
11月
・信長、家臣への知行申付けに初めて「天下布武」朱印用いる。
尾張・美濃の土豪に宛てた宛行状。
美濃制覇の3ヶ月後。
信長は、禅僧宗恩沢彦に、地名「岐阜」と印文「天下布武」を選定させる。
信長は、名盆に黄金10枚を積み、「盆は豊後の屋形(宗麟)からの進上品である、秘蔵せよ」と述べる。(「政秀寺古記」)
楕円形印:
信長以前は長尾景虎のみ、信長以降は多くなる。
(天正9年頃の宗麟のローマ字印と天正8年のヴァリニャーノの印は全く相似形。)
その後、永禄13(1570)年3月馬蹄形、天正5年5月~7年6月円形の天下布武印を併用。
印の制定には、旧秩序との完全な決別を意識していた筈で、その夢が、ポルトガル勢力と提携した全国制覇であった事を印の形状が裏付ける、との説あり。
(イエズス会巡察師イタリア人ヴァリニャーノの第1回滞在:天正7年7月~10年1月、のち2回滞在)
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・信長、美濃北方圓鏡寺へ寺法度は先規の如く新儀諸役の宥免を安堵(「圓鏡寺文書」)。
高木貞久へ知行安堵(「東高木文書」‐)。
坂井利貞へ美濃旦嶋内20貫文を知安堵(信長朱印状の初見)(「坂井遺芳」)。
矢野弥右衛門尉(美濃国地侍)へ美濃河野内20貫文を知行安堵。
兼松正吉へ美濃河野内10貫文を知行安堵(「兼松文書」)。
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・三好義継・松永久秀・久通、大和興福寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「多聞院日記」)。
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・足利義秋(後の義昭)、由良成繁へ内書を下す(「由良文書」)。
朝倉義景へ加賀国一向一揆との和睦を命令(「朝倉記」「多聞院日記」)。
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・真田昌幸、伊那高遠城に武田勝頼の嫡子誕生祝いの使者として赴く。
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・今川氏真の要請で、妹で武田義信の妻が駿府に送還される。
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・松平(家康)党総陣立発表。本多平八郎忠勝、御旗本先手侍大将となる。
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11月7日
・本願寺顕如、信長に美濃・伊勢平定を祝し大刀・馬などを送る。
三好三人衆と松永久秀の争いを軸に混乱の畿内を収集するのは誰かが、顕如の関心事。
信長(25)の台頭に注目・期待か?
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11月9日
・正親町天皇、信長に「決勝綸旨」発給。
戦意を鼓舞し、領土拡張・征服事業を承認。
弁官勧修寺晴豊が奉じ、勅使立入宗継(禁裏御倉職)が信長に持参。
信長の美濃攻略を賞賛し、禁裏御料所の年貢公事の徴収・上納、若宮(のち誠仁親王)の元服費用と禁裏修理について命令。(「御元服、御修理、御料所 以上」との目録)。
伝奏万里小路惟房の織田尾張守宛て副状(万理小路大納言宛て女房奉書写しには「若宮御元服馳走」)。
女房奉書の惟房副状の写し(右中弁花押、織田尾張守殿宛て)、「弥よ勝に乗ぜらるべきの条」とある(信長の以降の戦い=上洛命令)。
宛て先は伝奏か管領か大名縁故の公家となるが、直接信長個人に対して宛てられたのは異例。
初めての例。
12月5日、信長は武家伝奏万里小路惟房宛てに礼状。
信長への決勝綸旨発給と伝達:
「道家祖看記」(道家尾張守末子祖看が立入河内守貞頼の所望により記す)。
立入宗継が朝家のことを思い、大納言万里小路惟房に信長への「天下を仰せ付けられる旨」の綸旨発給を提案
(上臈(惟房妹、若宮母房子)が奉書を書き、綸旨を惟房が奉じれば、尾張へは近江山中の磯谷久次が案内する)。
惟房は躊躇するが、運良く、正親町天皇が夢のお告げ尾張熱田神宮への奉幣を思い立ち、上臈から2人の話をしたところ、内侍所にて籤を引いて「子細は明日に」となる。
10月24日、宗継は出発、28日、山中の久次と共に清洲に到着。2人の知人音道家尾張守に赴き、信長に対面。奉書綸旨と3ヶ条の書立てを渡す。
信長は「天下を仰せつけられた」と喜び書立ての日付けの下に判を据えて宗継に渡す。
三献の儀式後、村井を相伴に森・柴田・丹羽・木下・滝川5人を呼び、宗継に引き合わせる。
「今度国々、本意に属するの由、尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将なり。
弥よ勝に乗ぜらるべきの条勿論たり。
なかんずく、両国御料所、且は御目録を出さるゝの条、厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの由、綸命かくの如し。
これを悉(つく)せ。以て状す。
永禄十年十一月九日 右中弁(花押[勧修寺晴豊) 織田尾張守(信長)殿」
近江山中土豪磯谷久次が女婿2人(立入宗継・道家尾張守)を駆使して綸旨発給・伝達に成功。
更に、久次の子重勝の室は吉田兼右(清原宣賢の次男)の娘。
清原宣賢は唯一神道創始者吉田兼倶の3男で清原家を継ぐ(次男の兼右は宣賢の甥吉田兼満の嫡継として吉田家を継ぐ)。
信長への働けかけは、藤孝ルートと久次ルートがここで清原枝賢に集結。
藤孝は清原宣賢の娘と足利義晴との子。
清原宣賢の孫は枝賢で「天下布武」の創始者、娘に正親町天皇後宮女房に伊予局。
清原枝賢・吉田兼右が第1回決勝綸旨発給段取りを立て、娘が伊予局に上がった機会に、宗継・磯谷久次に惟房への働きかけを命じる。
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11月10日
・フランス、サン・ドニの戦い。
旧教派指導者モンモランシー大元帥(74)、ユグノー軍を攻撃。国王軍勝利。パリの包囲が解放。
12日、モンモランシー、コンデ公軍との戦いで戦死。王弟アンジュー公(後のアンリ3世)、旧教軍指揮者となる。
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11月12日
・北條氏政、岩付城の仕置を終え江戸城に帰陣
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11月中旬
・毛利氏、郡山城内で大響宴会を開き将士の労苦をねぎらう。
余興として京都より世観世大夫らを招き能狂言を挙行。
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11月16日
・足利義栄、将軍宣下を求めるが許されず。
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11月19日
・ペルー、アルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラ司令官・兵士70・牧師4・奴隷多数・帆船2隻の探検隊、ペルー・リマ近郷カヤオ港を出帆。
噂の「テラ・アゥストラリス(南方大陸)」発見の為。
1568年エリス諸島を発見、上陸せず、80日間航海の末、ソロモンの島に上陸、「サンタ・イサベル島」と名付ける。
続いてマライタ島、ガダルカナル島、サン・クリストバル島へと進む。この辺りはカニバリズム(人肉食)の地域で財宝は無い。メンダーニャは島を巡り、サンクリストバル島で居留地建設に取り掛かるが失敗。原住民が「サブ」と呼ぶ小さな火山島に自分の故郷の名「ガダルカナル」と名付ける
(後、「サブ」が変化して伝わり「サボ」と呼ばれ、この海域をサボ海峡と呼ぶようになる)。
1568年夏メンダーニャは帰途につき、1年がかりでペルーに帰港。サボ海峡は1568年にメンダーニャが名付け、ベララベラ、サボ、クラガルフ、コロンバンガラ、ツラギ、レンドバ、イサベル等のもこの探検航海で名付けられるか聞かされたと伝えられる。
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11月21日
・朝倉義景、足利義秋(義昭)を一乗谷安養寺に迎える。
27日義景が足利義秋の御所に伺候。幕府全盛期の管領出仕の儀式にも劣らない盛大さという。
12月25日義秋が返礼として義景屋形を訪問。警護の次第や献上の進物などは将軍訪問の例に異ならず、式は酒肴11献に及ぶ。
義昭は加越の和議を仲介、結果、坊官杉浦玄任の子の又五郎が人質として朝倉氏の許へ越し、この月両軍は撤兵。
加賀では、主戦派の「石川・河北之面衆」が「悉成敗」される。
翌11年3月又も戦い、敦賀の朝倉景恒勢が攻勢をかけ、金津へ侵攻した杉浦・堀江勢は加賀へ退却。
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11月24日
・立入宗継、京都発。28日、途中、近江山中の磯谷久次と合流し、この日清洲着。信長家臣道家尾張守宅に赴き、鷹狩帰りの信長に対面し、奉書・綸旨・3ヶ条を渡す。11月2日、宗継・久次、清洲発。
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11月27日
・多聞院英俊、三好義継・松永久秀・久通より夫々全3ヶ条の「禁制」を受ける(「多聞院日記」)。
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12月
・信長、嫡男奇妙丸(信忠)の室に武田信玄息女菊姫を迎える結納送る。
秋、信玄4男勝頼の室で信長の姪が急没したため。武田家と断交状態になり2人が出会う事はない。
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・信長、美濃阿願寺へ寺領安堵(「阿願寺文書」)。
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・今川氏真、上杉輝虎・徳川家康と交誼を交わす
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・信玄が義信夫人を駿河に返し、甲駿相3国同盟が破れる。
信玄は駿河に侵攻。今川氏真は上杉輝虎に救援を求める。
北条氏康・今川氏真は塩止めを実施し、輝虎にも同様の措置を求めるが、輝虎、「争うところ弓箭にあり、塩米にあらんや」として要請を拒否、従来通りの塩の輸送をするように蔵田五郎左衛門に命ずる。
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・ドイツ、カルヴァン派選帝侯フリードリヒ3世、息子ジャン・カジミール指揮軍隊をフランス改革派に送る。ルター派は援助せず。
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12月1日
・信長、大和興福寺衆徒・松永久秀老臣岡田因幡守・大和土豪柳生宗厳へ、義昭入洛に供奉する予定、義昭への忠誠、大和多聞城の松永久秀・久通父子との「入魂」(同盟)、久秀父子を「見放」さず必ず加勢することの「誓紙」を交換すると通知。使者は和田惟政と佐久間信盛。
天下布武印を使用。
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12月19日
・家康、従五位下三河守に叙任。徳川へと改姓。
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12月21日
・足利義秋(義昭)、朝倉義景に加賀一向一揆との和睦を調停。
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