東京、北の丸公園(2011-11-01)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(4-1)
「三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学」
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随筆「西瓜」(昭和12年)冒頭の「駄句」。
「日乗」昭和8年11月11日
「或年の夏、友達から見事な西瓜を一個貰ったことがあるが、大きすぎて一人ではどうする事もできない。
折角の好意を無にする悲しさに、わたくしは
もてあます西瓜一つやひとり者
といふ發句を書送って返禮に代へた
・・・
わたくしは初に言つたやうに決して獨身論を主張するものではない。
唯おのづから獨身の月日を送ることが多いやうになったのである。
何事にも苦と樂とは相半するものである。
妻帯者には妻帯者の樂みもあれば苦しみもあらう。
獨身者の生涯亦そのやうである」
「荷風が、東京の町をあちこち歩きまわることが出来たのは、彼が単身者であったからこそである。」(川本三郎)
大仏次郎の随筆「散歩について」(『大仏次郎随筆全集』第2巻、朝日新聞社)によると。
散歩は昔の日本では一般には認められていなかった、らしい。
「外出には羽織はかまに大小をさすのが社会的慣例だった日本のサムライに散歩を奨励したって実行不能だったろう。武士が散歩したら『お忍び』である」
「町人の社会でも、堅気な家など、用のない外出を戒めたのは当然である。町をうろついたり、ごろつくのは遊び人だけに認められたことだ。
日本で散歩を許されたのは、彼らか、閑に苦しんでいるご隠居だけである」
池波正太郎の画文集『東京の情景』(朝日新聞社)にも、
「むかしの東京・下町に住み暮らしている人びとは、よほどのことがないかぎり、自分の住む町の外へは出て行かなかった」と書いている。
昔の東京(下町)では「散歩」「町歩き」という概念がなかったのである。
佐藤観次郎(戦中・戦後、「中央公論」の荷風担当編集者)の回想記『文壇えんま帖--編集長の手記』(学風書院、昭和27年)。
戦後、数年ぶりに会った荷風が以前にも劣らず元気横溢していて、70歳を超えた老人と思えなかったと書いている。
荷風はこう答えたという。
「家庭をもたないことが、却って若返りでしょうね。
妻や子供をもつことは、わずらはしさが加わるだけで、この方が、余程気楽ですよ・・・」
家庭のある谷崎潤一郎と独身の自分とを対比させ、次のように語ったという。
「先日銀座を一緒に歩いた時ですがね、谷崎君には、あの銀座裏などには、少しも興味がないらしい。
勿論昼間でしたが、ダンスホールや、いかがわしい所にも・・・谷崎君は、もう孫まで出来ているので、矢張り世帯じみてしまうのですね。すっかりおぢいさんになっている。私より随分若いのに・・・
あれを思うと、家庭をもつと、人間、年老いてゆくんですよ。周囲がそうさせてしまうのですよ。
これが、私は恐れるのですよ。
矢張り家庭を持たずに、妻も子もなくって、これだけはしやわせだと思っています。
私は、その点だけは、よくやってきたと時に考えます。
こんな時代に、子供や孫などもったら、本当に苦労が多くて、
一寸、死にきれませんからね・・・」
明治41年11月7日、浅草散歩中に親友井上精一(唖々)に投函した短かい手紙
単身者ならではの町歩きの喜びが。
「先刻電話をかけたら己に御帰宅。
大川筋を散歩し浅草の一膳飯屋でめしを食った。
何といふ明月一寸吾妻橋から土手を歩いて帰らうと思ふ」。
「荷風は、自分が単身者であることにつねに自覚的だった。
そして単身者だから出来るひそかな楽しみごとの世界に入っていった。
大正から昭和のモダン都市東京には、そういう匿名の個人が身を隠す場所がいたるところに出来つつあった。」(川本三郎)
「「断腸亭日乗」には「孤独」の「孤」の字が非常に多く目につく。
「孤燈」「孤坐」「孤眠」、あるいは「孤眠の清絶」。
「孤」は荷風にとって単身者の反俗のダンディズムである。
俗人と群れたり、徒党を組んだりしない、孤高の清潔さである。
荷風が愛する「孤」は、また、侘び住まいの静かな抒情の源泉でもある。
侘しさの詩情は「孤」があってはじめて生まれる。
同時に「孤」は、無用者、余計者の美意識でもある。
現実社会から降りたところに自分を規定した無用者にとっては、「孤」の状態が、もっとも自然になる。
荷風の「孤」にはそうしたさまざまな想いがこめられている。
ときに「孤」を気取る。
「孤」に沈潜する。
「孤」の詩情をうたいあげる。
「孤」ならではのひそかな楽しみをつづる。
「孤」のわがままを得意気に披露してみせる。
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著者の川本三郎さんもまた詩人である。
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この項(4-2)に続く
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