東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
*延暦17年(798)
この年
・この年以降、桓武の治世は、右大臣神王(みわおう)、大納言壱志濃王(いちしのおう)という2人の皇親(ともに桓武の従兄弟)をトップとする台閣体制となる。
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・政府が畿内諸国の神主の任命権を握り、終身制から6年任期に改める(後には全国を対象)。
有力な神社は著名な氏族の氏神の場合が多く、氏族の在地支配は祭祀に支えられていた。
そこに楔を打ち込み、神社祭祀を国家の管理下に置こうとした。
この年、出雲大社の祭祀を司っていた出雲国造が意宇(おう)郡司を兼ね、神事にかこつけて、地元の女性を「神宮采女」と称して娶ることを禁じる。
延暦19年には筑前国宗像郡の大領(だいりよう、郡司のうち、最上席者)と宗像社神主の兼帯を止める。
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3月16日
・この日付の勅により、郡司の譜代制を廃止して才用制を採用し、具体的な郡司の任用基準を示す(弘仁2年に再び譜代主義に戻る)。
郡司の任用基準の能力主義(才用主義)化。
在地の伝統的有力者層を分解し、国家支配が直接末端まで及ぶことを企図した施策であり、在地の伝統的郡領氏族にとっては大きな打撃となる。
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4月
・得度の条件に追加項目を加える。
この月、35歳以上(のち20歳以上に緩和)の品行方正かつ学殖豊かな者で、毎年12月に僧綱が課す試験をパスして、初めて得度が許されることとされる。
これまでは経典の暗唱能力が問われていたのに対し、新たに施行される試験は経典の解釈を問うものであり、質も問題にする段階に至ったことを示す(『類聚国史』巻187)。
この制度の導入の結果、南都六宗(三論・成実=じようじつ・法相=ほつそう・倶舎=くしや・華厳・律各宗)の内では、論理の追求に重点を置いていた法相宗が盛んになり、後に最澄と対立することになる護命(ごみよう)など、数学的にも優れた僧侶が、この中から生まれてくる。
得度の条件は、天平6年(734)時点では、『最勝王経(さいしようおうきよう)』もしくは『法華経』といった護国経典を暗唱し、かつ3年以上修行していることとされていた(天平6年(734)11月20日太政官奏。『類聚三代格』巻2)。
国家の認める僧尼の条件は、呪術的な験力(げんりょく)を十分に持ったうえで、護国法会で経文を唱誦(しようじゆ)できることであった。
得度を希望する者は、師の僧に優婆塞貢進文(うばそくこうしんもん)という推薦状を書いて貰うが、正倉院文書の中に残っている優婆塞貢進文を見ると、『法華経』や『最勝王経』の読経能力の他に、密教の陀羅尼・神呪(しんじゆ)といった呪文を唱える能力を備えていることが記されていることが多い。
雑密のある程度のマスターも沙弥の条件になっていた。
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4月16日
・この日付け太政官符で、大宰管内諸国の解(げ、上申書)に基き、全国の移配俘囚から調庸を徴収しないと定める。
移配蝦夷の処遇に転換をもたらした法令。
大宰管内諸国の解の現代語訳。
「例の俘囚たちは、常に旧来の習俗を保ち、未だに野心(服従しない荒々しい心)を改めようとしません。
狩猟と漁労を生業とし、養蚕を知りません。
それだけでなく、居住地が定まらず、雲のように浮遊しています。
調庸を徴収しようとすると、山野に逃げ散ってしまいます。
調庸の末進が累積するのは、主にそのためです。
そこでお願いしますことは、本人からの徴税を免除して、子孫が増えたら、はじめて課役を徴収したいと思います。
そうすれば俘囚は次第に日本人の習俗を学習し、国司は永く後の煩い(補填責任のこと)を免れることができるでしょう。」
この年まで移配俘囚に調庸を課す原則があったが、調庸を収取できていないため、俘囚の調庸を当分の間免除することにしたという。
陸奥・出羽の蝦夷(俘囚・夷俘)は調庸を負担しないが、移配先では調庸を賦課されていた。
調庸を収取できない理由として、大宰管内の諸国司は、俘囚はみな狩猟・漁労を生業とし、養蚕を知らず、定住しないからだと述べている。
しかし胆沢の蝦夷は基本的に農耕民である。
狩猟・漁労も行っていたとしても、農耕の占める割合はかなり高い。
延暦8年(789)の征夷で惨敗した征東将軍紀古佐美は、「蠢爾(しゆんじ)たる小寇(しようこう)、且(しばら)く天誅を逋(のが)るると雖も、水陸の田、耕種することを得ずして、既に農時を矢へり。滅びずして何をか得たむ」と述べて、桓武天皇に征夷軍の撤退を進言している(『続日本紀』延暦8年6月庚辰条)。
「蝦夷たちは攻撃を逃れたけれども、水田・陸田ともに田植えができなかったので、放置しても滅ぶであろう」という論理である。
移配蝦夷が農耕を知らない狩猟民とされている理由としては、
①彼らが故郷から強制的に引き離され、移配先で社会的な差別を受けるという特殊な境遇に置かれていたこと、
②彼らが倭人とは異なる文化・習俗を持っていたこと、
という2要因が想定される。
延暦末年は班田収授制の崩壊が始まる時期であり、その状況下で班給された移配蝦夷の口分田が、生活に十分なものであったとは考えられない。
彼らに公粮(国家が支給する食料)が与えられたのも(『日本後紀』弘仁2年2月癸酉条)、公粮を支給しなければ生活が立ち行かない者が多かったからであろうと推測できる。
与えられた口分田の条件が悪ければ、農耕民であっても、山野で狩猟をしたり、定住を断念したりすることもあり得るわけである。
それを大宰管内の国司は「恒に旧俗を存し、未だ野心を改めず」とみなし、調庸を取れない責任を俘囚の習俗や不服従性に転嫁した。
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