2011年11月14日月曜日

昭和16年(1941)11月14日 「美名の下にかくれて不義を行ふは今や天下の通弊となれり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 雨の北の丸公園(2011-11-11)
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昭和16年(1941)
10月14日
・十一月十四日。市兵衛町表通曲角に原田積善會事務所あり。大なる破風造にてまづは地震加藤の舞台面を見るが如きものなり。
この頃日米開戦を豫期し構内に貯水池を掘りしところ其土の捨場に窮し、我門前の細径の私道なるをいかにして知りしにや、居住民には何の断もなく数日前二日間にわたりねぱねばしたる赤土を棄て行きたり

居住者の中にて鄰組の者を積善合に遣し問はしめしところ、かの横町は坂道にて凹凸甚しく幼児の通学に不便なりと思ひ土塊を寄附せしなりと荅へたりと言ふはなしなり。
遠方へ土を捨てにやるは費用かゝるが故名を慈善に仮りて近き處へ捨てたるに非ずや。

此れさながら満洲の人民が張作霖のために苦しめらるゝが故に之を救ふと称して日本の軍人が張を殺し奉天府を占領せし策畧その揆を一にするものなり

美名の下にかくれて不義を行ふは今や天下の通弊となれり
慨歎せざるぺけんや。

原田積善會なるものはもと金貸原田某の計營せしものの由。
 死後今日の如く財團囲法人の組織となりしなり。

早稲田出身の文士島村民蔵積善會の依嘱により原田某の傳記を編纂せしに頗強慾非道の事もあり、島村は資料を得るがまゝこれを除かず皆明細に記載せしかば積善會にては大に困却し島村氏には名義をつけて毎月莫大の給料を贈り、別の人を頼みて金貸原田の立志談を編纂して世に公布せしと云ふ。

余この事を早稲田大學の其教授より聞きしなり。
二十年前の事なり。余は又島村民蔵とも面識あり。

余の三田に在りし頃の事なり。島村は柳原土手古着屋の忰なり。・・・
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11月15日
十一月十五日。晴。土州橋への道すがら日此谷を過ぐ。
菊まつりとやら称ふる催ありとて人雑沓せり。
戯に口ずさむ事左の如し。

菊さへも赤きが目立つ世なりけり
しばられて竹をたよりや菊の花
しだらなく野菊寝転ぶ風情哉
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11月16日
十一月十六日 日曜日 晴。終日家に在り。
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11月17日
十一月十七日。晴れて暖なり。夜淺草に徃く。
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11月18日
十一月十八日。晴。暖気華氏六十三度なり。夜雨ふる。
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このところ、寡黙な荷風が続いている。
久しぶりの毒舌が出たが、それにしても12月8日の「対英米戦」開戦を見越したかのように、意識的にそれを無視するかのように、寡黙である。

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