東京、江戸城東御苑(2011-10-26)
*昭和16年(1941)11月1日
十一月初一 舊九月十三日 午後時雨はらはらと降り來りしが暮方より空晴れ十三夜の月あきらかなり。世間唯わけもなく騒しく後の月見る人もなきが如し。
土州橋に行き芝口に飰してかへる。残蛩尚聲あり。
*
11月2日
十一月初二 日曜日 快晴。
*
11月3日
十一月初三。晝は晴れて暖く夜は月よし。淺草に徃く。
市中電車の雑沓甚しく街路に酔漢の嘔吐せし物悪臭を放つ。
少壮士官の女を携へ酔うて放歌するものあり。芝口電車停留場にて目撃せしなり。
*
11月4日
十一月初四。晴。 十一月初五。晴。
正午芝ロに飯して品川に徃く。東海寺をたづね少林院に服部南郭の墓を掃はむとてなり。先年南郭先生文集を通讀してより此の儒者の元禄以後の江戸文学に影響を及すこと最大なるを知り平生折あらば其墓を見むと息ひつゝ遂に今日に至れるなり。
品川驛の前にて電車よりバスに乗りかゆ(換ふ)るに、女郎屋残りたる舊道の東裏にて駐りて行かねば、道を人に問ひ歩みて國道に出で品川区役所傍の道を曲る。五反田へ往復する白パスを見る。再び人に問ふにバスに乗るほど遠くはなし、せめんとの塀のつゞきたる道の左側を見て行きたまはゞ奥深き横町に東海寺の門を望むべしと教へられたり。
歩みを運ぶに果して古き門あり。本堂はむかし向嶋に在りし弘福寺に似たり。鍾楼もあり。白菊の咲匂へる垣の中の花壇に葉鶏頭おぴたゞしく西日を浴びて立ちたり。鐘楼のほとりに牡丹を栽培したるところあり。
小坊主一人雑草をとりて居たれば南郭先生が墓の所在を問ふに、それは門を出で表通を四五町行き省線のガードをくゞり線路に添ひ工場の間の細き道を登れば番人の家あり。澤庵禪師基のしるぺ立ちたる石段を横に見て、後方の岡に登るぺしと委しく教へくれたり。
行きて見るにその言ふが如く南部先生累世の墓は丘上の墓地の西北の一隅に在り。
省線の列車と電車絶間なく墓のうしろを通過す。
墓石の位置次の如し。
(略)
*
11月6日
十一月六日。牛晴。風邪の気味。土州橋に至り注射。
*
11月7日
・十一月七日。晴。薄暮物買ひにと淺草に行く。
*
11月8日
十一月八日。世の噂をきくに本年九月以来軍人政府は迷信打破と称し太陰暦の印刷を禁じ酉の市草市などの事を新聞紙に記載することをも禁じたる由。
今夜十二時より一の酉なれど新聞には出ず、十月中日本橋べつたら市のことも新聞紙は一齊に記載せざりしと云。
清正公の勝まもりも迷信なるべく鰹節を勝武士なとゞ(ママ)かく事も軈て御法度となるべきや否やと笑ふ人もあり。
*
11月9日
十一月九日 日曜日 陰。微恙あり。門を出でず。
*
11月10日
十一月十日。北風吹きて俄に冬らしくなれり。午後土州橋より淺草に徃き夜ふけてかへる。
*
11月11日
十一月十一日。晴。籾山半三郎俳号柑子當月二日急病にて歿せし由金兵衛の店にて聞く。
*
11月12日
十一月十二日。晴。午後カメラを提げ再び少林院の後丘に南郭先生の基を展し其養子仲英の墓誌を寫す。
(略)
墓誌を寫し終りて・・・、南郭先生と其子孫の墳墓の今は既に無縁となれるが如く見ゆるにも係らず、戦乱の世に在りて尚恙なく保存せらるゝは、此岡の東側に國学者加茂眞淵の基ありて大なる石の華表の立てるが為なるぺし。
若これ無かりせば此岡は既に早く取崩されて工場及鐡道線路の敷地となされしなるぺし。そは近巷一帯の形勢を見れば明なり。墓地の東西両面ともに鐡道の線路にして南側には工場の立てるあり。工場前の廣き道路には鐡橋かゝりて運河の岸に三共製薬社の大工場あり。
余は今日江戸時代の詩人の如く晩秋の夕陽を浴びて少林院後丘の樹下に南郭先生の基を拝する事を得たるは實に不可思議なる奇事と言はざるべからず。
むかし江戸時代の漢詩人は御殿山に櫻花を見、海晏寺に楓を賞せし途次必こゝに來りて享保の才人が墓を吊ひしなり。
國学者加茂先生の墓は江戸の詩文に封してさながら右翼団壮士の任務を帯ぶるものと謂ふべし。
バスに乗るに直に省線大崎停車場前を過ぎて五反田に至れり。市電に乗換へむとする時久しくこの邊の陋巷を歩まざれば、入りて見るに、恰五時少し前にて女給の出勤時刻なり。
住込の女既に化粧をすませ店の戸口にて草履の鼻緒の切れたるをつくろへれる(ママ)もあり。
二三人ヅゝ道の上に立ちてふかし芋食へるもあり。
蓄音機の流行唄の漏るゝを聞けば愛染かつらの唄なるも今は何やら珍らしき心地するも可笑し。
表通に出るに五反田省線電車の出入口には乗客列をなして押合ひたり。
市電は幸にして雑沓せず苦しまずして家にかへるを得たり。風俄に寒し。
*
11月13日
十一月十三日。灰色に空曇りて暮方より雨ふる。
*
*
現在、山手線、東海道線、新幹線に挟まれた三角州のような場所に「東海寺大山墓地」というのがあり、荷風が行った服部南郭のお墓もあるそうです。(沢庵、賀茂真淵の墓も現存)
(「日乗」でも「墓地の東西両面ともに鐡道の線路にして」とある通りです)
*
*
「対英米戦」開戦直前のこの頃、荷風は、意地でも世間に背を向けているように見えます。
*
0 件のコメント:
コメントを投稿