2011年11月24日木曜日

弘仁3年(812) 鎮兵削減が完了 諸国に俘囚長をおく 空海が最澄に灌頂を授ける

東京 江戸城東御苑(2011-11-16)
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弘仁3年(812)
この年
・藤原園人、右大臣となる。~弘仁9年(818)。
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・陸奥国斯波郡(岩手県紫波郡矢巾町)に徳丹城設置
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・宮廷で公けの催しとして『日本書紀』が講習される。
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2月12日
嵯峨天皇、神泉苑で観桜の宴を催す。
文献に現れるもっとも古い桜の花見とも云われている。現在の3月28日くらいか。
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3月
・この月、鎮兵の削減が完了
また東北最大の城柵、志波城の移転が完了。
同時に鎮守府が4等官制から3等官制に規模を縮小。

鎮兵の削減に連動して、東北最大規模の城柵であった志波城は、「河浜に近く、しばしば水害を被る」という理由で移転する(『日本後紀』)。
志波城跡の発掘調査では、遺跡の北半が雫石川の氾濫によって削平を受けていることが知られている。
移転先は徳丹城(とくたん、紫波郡矢巾町)で、トクタンとはアイヌ語のトー・コタン(沼・村)由来すると言われる
。移転の完了は、鎮兵の削減が完了した弘仁3年(812)3月と推定され、同時に鎮守府が4等官制から3等官制に規模を縮小。
徳丹城は志波城より南に約10km後退したところに造られ、規模も志波城の一辺約840mから、一辺約350mに大幅に縮小。
律令国家が北進策を放棄し、現状維持に転換したことを如実に示す考古学的事実。
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6月
・諸国に「俘囚長」をおく。
諸国の夷俘が多く法律を犯しているため、夷俘の中から「衆の推服する所の者一人」を選んで夷俘長とし、取り締まりに当たらせることになる(『日本後紀』弘仁3年6月戌子条)。
翌年には、夷俘専当国司が置かれ、移配蝦夷は夷俘専当国司-夷俘長(俘囚長)という組織の下で支配されることになる。
その契機となったのは、入京越訴の多発であった。
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8月
・郡司選任方法、国司の選んだ候補者を尊重するよう改める。
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8月19月
・最澄、空海に法門伝授約諾の感謝の書簡を送る。
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11月
・この月の高雄山寺での灌頂で、空海が最澄に灌頂を授ける
密教の師としての空海の優位が内外に鮮明になる。(11月15日、12月14日)    

空海は、帰朝後、暫くして高雄山寺に居を移す。
最澄は、空海に接触し、経典の借覧をしばしば請うている。
そして、この年、高雄山寺において、最澄は、空海から多くの僧侶とともに、金剛界・胎蔵界の灌頂を受けた。
このことは、最澄が、殆ど無名に近い空海と社会的立場を逆転させ、空海の弟子となったことを公に認めたことになる。
そして、両者の仲は徐々に冷え込んでいく。
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