2016年5月4日水曜日

元亀4/天正元年(1573)11月1日~12月31日 足利義昭、紀伊由良に蟄居 河内若江城陥落・三好義継自害(三好の嫡流絶える) 信長・本願寺講和 多聞山城の松永久秀、信長に降る [信長40歳]

鎌倉、妙本寺 2016-04-19
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元亀4/天正元年(1573)
11月1日
・武田勝頼、甲斐より駿河を経て大井川を渡り遠江に侵入。掛川・久能に放火、見付に陣を移し浜松城攻略を図る。果せず甲斐に引き揚げ。
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・フェリペ世、騒ぎを収束できないアルバ公を解任。後任ドン・ルイス・デ・レケセンス。
(アルバ公は7月ハーレム市攻略後、アルマーク市を包囲。反乱軍は堤防を決壊させ自らの国土を水の下に沈める。この戦法にスペイン軍はアルマーク市攻略放棄。次にレイデン市包囲)
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11月4日
・信長、上洛。
10日、入洛、妙覚寺宿泊。
「朝倉始末記」によれば、越前国侍も上洛して礼を述べたとある。この時、信長は朝倉景鏡に土橋姓を、朝倉景健に安居姓を、前波長俊に桂田姓を与え、景鏡・景健に本領安堵し、長俊には義景遺領と信長に敵対した朝倉氏家臣の旧領を給与、朝倉氏旧臣魚住景固に丹生郡を支配させたという。長俊は、膨大な礼物を信長に献上。23日信長の茶会において、長俊が献上した馬が津田宗及に与えられる(「津田宗及茶湯日記」)。また、長俊は、府中を領する富田長繁とその与力の毛屋・増井の知行分が多すぎると信長に訴える。
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11月4日
・木下祐久、越前織田剣大明神寺社中へ、信長朱印が下されたが、この旨を無視する動きがあり前波長俊へ説示したと通達、朱印が下された上は疎意無きことを命令(「剣神社文書」)。
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11月5日
・義昭、若江城を出て堺に移動。
9日、紀伊へ向かうため堺を出発。
河内若江城の三好義継の許に身を寄せていた義昭は、信長に対抗できるのは毛利氏しかないと考え安芸下向の意向を示す。毛利氏は信長との全面対決を嫌い安国寺恵瓊に慰留させる。恵瓊は義昭を京都に戻すことで信長と交渉。信長は了承するが、信長からの人質を要求する義昭により交渉決裂。
義昭は行場を失い紀州由良の興国寺へと落ちる。
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11月13日
・信長、和泉堺津引接寺へ織田軍の陣取・寄宿を免許する旨を通達(「正法寺文書」)。
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11月14日
・天下所司代村井定勝、信長の使として、禁裏と親王にみかん等を献上する。禁裏より緞子(どんす)を賜る(御湯殿上日記)。
信長のもとにみかんが届いたので、信長は一部を天皇と誠仁親王に献上した。返礼の緞子は、信長へのもの。信長は、2日後にも天皇・親王にみかんと鯉を献上、19日にも鯛を献上している。
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11月15日
・アスンシオン入植者フアン・ド・ガライ、大西洋岸に向け探検。サンタフェの町を建設。
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11月16日
・信長、佐久間信盛・柴田・丹羽ら率い河内若江表(東大坂市)出陣。松永久秀・久通7千参陣。久秀、三好義継重臣を反逆させるよう説得。三好義継(25)自害(三好の嫡流絶える)、若江城陥落。
主君義継を裏切って織田軍を入れた老臣3人(野間長前・池田教正・多羅尾常陸介)が共同で河内北半国を治める。

勢いづく織田勢、河内を席巻、堺郊外の長曾根の善龍寺中心の寺内町を制し、善念寺をもとに寺内町を形成していた大ヶ塚に寺内を保障する禁制発給。
大ヶ塚は、石川の支流の梅川と浦川に挟まれた河岸段丘にある天然の要塞。
初め根来寺衆徒の拠点で、善念寺(顕証寺)が本願寺末になることによって、寺内特権を確立。
大ヶ塚近くの大伴も石川と千早川の合流地点にあって、「大伴道場」として寺内特権が認められ、石川左岸に興正寺を中心に開かれた富田林は、「大坂並」という、石山本願寺と同じような寺内特権が保障されていた。
信長の伸張によって寺内特権はしだいに剥奪されていったが、寺内の経済・交易権は保護され、信長の経済圏に組み入れられていく。信長は武力の前に屈する寺内町は、そこにある経済力を収奪するために保護するという政策をとった。
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11月18日
・信長、石山本願寺へ、和議の挨拶として名物茶器「白天目」を贈られたことを謝し、疎意無き旨を通知(「本願寺文書」)。
この和議は、信玄没、浅井・朝倉滅亡、義昭追放の状況下で本願寺側から働きかけたものと思われる。両者を取持ったのは今井宗久か? 講和条件は本願寺安泰、門徒の石山参詣保障。高札は京都に掲げられ3日で撤去されたという。両者共。態勢整えるまでの時間稼ぎ。

11月18日付、信長から本願寺に宛てた書状
「芳墨(ほうぼく)拝閲(はいえつ)せしむ候。さて一種-号白天目ー贈り給わり候。名物の条、連々一覧の望み候梟(けり)。旁(かね)て以って自愛鮮なく候。度々御懇信決然の至り候。随って条目の通り、聊か(いささか)も疎意無く候。委曲は大坂肥前法橋に申し含め候。恐惶敬白。
十一月十八日                              信長 (黒印)
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11月23日
・~24日、信長、妙覚寺で茶会。早速「白天目」を披露。今井宗久が出席。
12月2日、岐阜に戻る。
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11月28日
・信長、正実坊掟運の知行安堵(「建勲神社文書」)。旧幕臣上野豪為の知行安堵(「五十川清氏所蔵文書」)。旧幕臣信濃兵部丞の知行安堵(「国立国会図書館氏所蔵文書」)。12月14日、旧幕臣梅松軒の知行安堵(「佐藤行信氏所蔵文書」)。
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月末
・越前、織田劒社領と桂田長俊の代官が支配する織田荘料所方との間で、織田寺社が料所方に負担する用米を巡り紛争。
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12月
・山中鹿之助ら3千、再び因幡に進入、次々と城を攻略。山名氏も尼子軍に協力。因幡の大半が尼子氏の傘下に入る。
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・信長、摂津富田庄普門寺へ、先規に任せて寺領を安堵し、織田軍の陣取・寄宿を免除。
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・信長、正親町天皇の譲位を「頻りと申し入」れ(伝奏中山孝親の日記)。天皇は、曖昧な返事で先延ばしする。
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・秀吉、浅野長吉(長政)・真野左近らに知行を宛行う。(浅野家文書)
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12月1日
・沢庵和尚、但馬に誕生。
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12月2日
・木下祐久、越前織田庄寺庵給人中・百姓中へ、信長が諸役免除黒印状を下したが、課役徴収する者が存在したため諸役免除をさらに確認(「剣神社文書」)。
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12月5日
・村井貞勝、自邸に中山孝親の訪問を受ける(孝親公記)。
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12月12日
・安国寺恵瓊、国許への書状で「信長の代は3~5年もつ。来年には公家になるだろう。その後『高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え候』。藤吉郎は格別の者(「さりとてハの者にてニて候」)である」と記す。
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12月14日
・信長、旧幕臣梅松軒の知行安堵。山城仁和寺の御室雑掌成多喜御房の知行安堵。
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12月16日
・村井貞勝、明智光秀と共に、策彦周良(さくげんしゆうりよう)に宛て、安弘名(やすひろみよう)が妙智院の直務であることを確認する。
同日、安弘名の小作人に、今井某の言い分を無視して、年貢を妙智院に納めるよう命じる(妙智院文書)。

前年9月、信長が私淑した高僧、天龍寺妙智院住持の策彦周良が、山城葛野郡にある安弘名について訴えた。
安弘名は本来妙智院が直務(直接年貢・諸公事=雑役を徴収すること)していたはずなのに、今井という者が百姓との間に入って、中間搾取をしていたらしい。策彦は、そこを直務に戻してほしいという。塗りの菓子箱・皿・盆が信長に贈られ、信長は満足して礼を述べている(『妙智院文書』)。
信長は、木下秀吉・武井夕庵に命じ、百姓たちが直接妙智院に納めるよう取り計らった。
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12月16日
・仏、ミヨー(フランス中南部)、ユグノーの牧師達の一大集会開催(改革派政治会議開催)。
牧師達の要求にカトリーヌが「応じない」と宣言、時間を稼いだことに対する示威集会。
ユグノー派、「プロテスタント共和国」を構想して軍事組織を強化。
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12月26日
・多聞山城の松永久秀、信長に降る。多聞山城引渡す。
信長は何故、三好義継を攻め滅ぼしたのに、松永久秀を助けたのか。
久秀の畿内における影響力は、まだ利用価値があった。また、多聞山は、西日本随一といわれるほどの豪華な城郭で、中には、天下の至宝と評判される絵画や茶道具などが保管されていた。信長は、多聞山城とともにこれらの宝が失われるのを惜しんだのかもしれない。
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12月26日
・村井貞勝、先に、明智光秀とともに寂光院・三千院の知行を安堵する。
この日、天皇がそれを喜ぶ旨の綸旨が出される(来迎寺文書)。
寂光院・三千院は、皇室とゆかりの深い寺だが衰退の道を辿っていた。
信長は、貞勝・光秀に命じ、その二寺の知行地を安堵させた。正親町天皇は知行地回復を聞いて喜んだ。
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12月28日
・信長、伊達輝宗に書簡。
義昭追放、朝倉討伐について述べ、その後、若狭・能登・加賀・越中は全て信長「分国」とした、「五畿内之儀」・「中国」(毛利領国)は信長「下知」の及ぶ地域となったこと、来年は武田氏に対する軍事行動の予定、更に北条氏「成敗」を予定、協力要請(「伊達家文書」)。
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