2016年5月4日水曜日

『信濃毎日新聞』社説 憲法の岐路 首相の姿勢 民主社会が壊される懸念(5月2日) / 憲法の岐路 押しつけなのか 礎となった歴史踏まえ (3日) / 憲法の岐路 改憲後の社会 主人公が国民から国家に (4日)

『信濃毎日新聞』社説(5月2、3、4日)

憲法の岐路 首相の姿勢 民主社会が壊される懸念

 (略)

   <解釈改憲の乱暴さ>

 参院選が7月に迫る中で、69回目の憲法記念日が巡ってくる。選挙結果によっては、改定を「私の任期中に成し遂げたいと考えている」と明言する安倍晋三首相の下で、改憲が一段と具体性を帯びてくる可能性がある。

 憲法の規定も時代に合わない面が出てくることはあり得る。本当に都合の悪いところがあれば惰性に任せず、改憲の是非を議論するのは構わない。

 ではあっても、私たちは自民党、とりわけ安倍首相が主導する形で改憲論議を進めることに反対する。理由を二つ挙げる。

 第一は、憲法に向き合うときの首相の姿勢が乱暴なことだ。

 安倍政権は2年前、集団的自衛権について憲法解釈の変更を閣議決定し、行使を容認した。歴代内閣が維持してきた「憲法に照らし行使できない」とする解釈の一方的な変更だった。

 「政府の法律顧問」とも呼ばれる内閣法制局長官の首をすげ替え、専門的立場からの異論をあらかじめ封じる強引さだった。

   <掘り崩しが進む>

 「最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」

 この発言も忘れるわけにいかない。憲法解釈の変更をめぐる国会答弁だ。選挙で勝てば全てが許されるかのような言い方は民主主義と相いれない。

 仮に条文に変更が加えられない場合でも、安倍政権が続けば憲法は掘り崩されていくだろう。首相による憲法秩序の破壊である。

 首相は2012年の総選挙の前、野党自民党の総裁だったときに改憲手続きを定めた96条の改定を目指す考えを表明している。

 こう述べた。「たった3分の1を超える国会議員の反対で発議できないのはおかしい。そういう横柄な議員には退場してもらう選挙を行うべきだ」

 どこの国も、憲法の改定には他の法律よりも高いハードルを設けている。憲法が国の在り方の根幹を定める以上、当然のことだ。

 日本の場合、衆参両院の総議員の3分の2以上が賛成しないと改定を国民に向けて発議できない仕組みになっている。

 改憲規定の見直しは憲法の安定性を損なう。改憲に反対する議員に「横柄」のレッテルを貼り、排除しようとするのは間違いだ。

 安倍首相主導の改憲論議に反対する第二の理由は、首相が憲法を変えることを自己目的化している節があることだ。どこをどう変えるかはっきり説明しないまま「任期中の改正」を繰り返す。

 首相は自著に書いている。

 「国の骨格は、日本国民自らの手で、白地からつくりださなければならない。そうしてこそはじめて、真の独立が回復できる」

 日本はこれまで独立国でなかったかの書きようだ。

 日本人は戦後、今の憲法の下で国造りを進めて、平和で豊かな社会をつくってきた。そうした努力をおとしめるかの首相の言い方は受け入れられない。

   <世の中が変わる>

 先の戦争に敗れ、今の憲法を持つことによって、日本は明治憲法とは別の基本原理を持つ国になった。天皇は「神聖にして侵すべからず」とされた存在から「象徴」になり、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を三大原則とする国に生まれ変わった。

 安倍首相によって憲法が変えられれば、日本にはもう一度根底的な変化が訪れるだろう。その結果やって来る世の中がどんなものになるか。自民党の改憲草案を読むとイメージがわく。

 日本は「天皇を戴(いただ)く国家」になり、国民の権利には「公益および公の秩序」の観点から制限が加えられる。集会、言論など表現の自由も、「公益および公の秩序を害すること」を目的とする場合には認められない。

 世界の人々が長い年月をかけ、時には血を流して築き上げてきた民主的、近代的な価値観とは一線を画した国になる。その方向に進むのを許すかどうか、私たちはいま分かれ道にいる。

 69年前の5月3日、県内では施行を祝う演芸大会などが行われたと当時の本紙にある。戦争の傷跡が残る中、国民は平和憲法を心から歓迎した。そのことが持つ意味をいま、改めて思い起こしたい。

(5月2日)


憲法の岐路 押しつけなのか 礎となった歴史踏まえ

 嗚呼(ああ)戦いに打ち破れ敵の軍隊進駐す/平和民主の名の下に 占領憲法強制し/祖国の解体計りたり…。

 現憲法の公布から10年を経た1956年、後に首相を務める中曽根康弘氏が作詞した「憲法改正の歌」だ。

 憲法は敗戦後にGHQ(連合国軍総司令部)によって押しつけられた―。改憲派によるその主張は今なお命脈を保つ。安倍晋三首相は2012年の総選挙の際、「みっともない憲法だ」と述べた。

 日本の主権が制限された占領下に定められ、GHQが立案段階から深く関わったことは事実だ。けれども、制定に至る過程には多様な側面がある。「押しつけ」と決めつけるのは短絡的に過ぎる。

 当初、GHQから憲法改正を委ねられた日本政府は、天皇主権の旧憲法の基本的な枠組みを変えようとしなかった。方針を転じたGHQは1週間余で草案を起草している。離れ業を成し得たのは、民間で作られた草案を詳細に検討していたからだと歴史学者の色川大吉さんは言う(「五日市憲法草案とその起草者たち」)。

 とりわけ、在野の憲法研究者の鈴木安蔵らによる「憲法研究会案」は注目されていた。国民主権、天皇の儀礼的地位、法の下の平等、人権保障など、GHQ草案と重なる部分は多い。

   <民権思想の水脈>

 鈴木は、明治期に自由民権の運動家らが起草した「私擬憲法案」を研究していた。民権思想の水脈が、旧憲法下の弾圧を経て戦後再び表に出たのが研究会案だった。それが現憲法に生かされたことに目を向けておきたい。

 もう一つ重要なのは、占領当局が憲法を制定したわけではないことだ。GHQ案を基にした政府の改正案は、女性の参政権が認められた戦後初の総選挙後、議会で審議され、圧倒的多数の賛成で成立した。衆議院の採決は賛成421票、反対8票だった。

 議会会期は4回にわたって延長され、114日に及んだ。議会内外の議論による修正が大事な意味を持ったものも少なくない。

 政府案の前文で「国民の総意が至高なものであることを宣言し」とされた部分は、主権の所在が不明確と批判され、「主権が国民に存することを…」に改められた。憲法研究会の案にあった、健康で文化的な生活を営む権利は、衆院の審議で“復活”し、25条の生存権の規定が加わった。

   <重しとしての9条>

 戦争放棄を定める9条1項の冒頭「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言も、衆院で追加された(古関彰一著「平和憲法の深層」)。この修正がなければ9条に「平和」の言葉がなかったことに目を開かれる思いがする。

 国民が直接、意思表示をする機会こそなかったが、多くの人々の意思とかけ離れたものだったわけではない。新しい憲法を押しつけられたのは旧体制の支配層であって、国民ではなかった。

 敗戦のとき中学生だった作家の半藤一利さんは、戦争放棄の条項を目にして「武者震いの出るほど、素晴らしいことに思えた」と書いている(「日本国憲法の二〇〇日」)。「焼け跡で見た悲惨な数かぎりない死を無意味にしないためにも、こよなく有意義なことと信じられたからである」と。

 そして何よりも、憲法は戦後日本の歩みの礎となってきた。冷戦下、米国の要求で日本は再軍備を進めるが、自衛隊は「戦力」ではなく、必要最小限の「実力」とされ、現在に至っている。矛盾は隠せないにしても、たがをはめた意味は大きい。憲法の重しがなければ、日本が今日たどりついた地点はまるで違っていたはずだ。

   <次世代に手渡す>

 国民の多くがこの憲法を70年近くにわたって支持してきたことは、自ら選び取ったことを結果として証明してもいるだろう。その重みも受け止めたい。

 過去の政権が一貫して違憲としてきた集団的自衛権の行使を安倍政権は解釈改憲で容認した。9条が、あってなきものにされかねない。ならば、「集団的自衛権の放棄」を明記すべきだという意見もある。憲法を守るためにこそ改正する―。「護憲的改憲」といわれる考え方の一つである。

 憲法には、戦争と核の惨禍を経験した国民の不戦の願いが込められている。2度の世界大戦を踏まえ、「武力なき平和」を目指す徹底した平和主義を掲げた意義はなお失われていない。安倍首相が言う「敗戦国のわび証文」などでは決してない。おいそれと手放すわけにはいかない。

 より確かなものとして次の世代に手渡すためにどうするか。主権者として自ら考え、周りと話し、声を上げたい。決める責任はわたしたちにある。だからこそ、押しつけ論のような狭量な歴史観、憲法観に陥ることなく、冷静で具体的な、実りある議論を深めたい。

(5月3日)



 もし天使が人間を治めるのなら抑制など必要ない。人間が政治を行う場合、その政府が自身を抑制せざるを得ないようにしなければならない―。

 18世紀末、合衆国憲法案の賛同を得るための論文集「ザ・フェデラリスト」にこんな趣旨の文章がある。後に第4代大統領になるJ・マディソンが著した。

 人は天使ではない。為政者になれば暴走するかもしれない。それを抑える仕組みが要る。立憲主義を分かりやすく言い表している。

 東大名誉教授だった故芦部信喜氏(駒ケ根市出身)も近代憲法の目的を自著でこう書いている。〈個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限すること〉

 日本国憲法の99条を読むと、それがよく分かる。憲法の尊重・擁護の義務を、国民にではなく、天皇や国務大臣、国会議員、公務員らに課しているからだ。

 芦部氏のような論は憲法学の定説となっている。

   <権力の制限のはずが>

 自民党が4年前に公表した憲法改正草案は、この定説が顧みられていない。多くの憲法学者から批判が出るのも当然だ。

 安倍晋三首相は一昨年の衆院予算委員会で、こう答えている。

 「憲法が国家権力を縛るというのは、王権が絶対権力を持っていた時代の考え方だ。今は国の形、理想を語るものだ」

 首相が描く「国の形」とは何か。自著では〈日本の国柄をあらわす根幹が天皇制〉と説く。

 改正草案では前文で「日本国は…天皇を戴(いただ)く国家」と定め、1条で天皇を「日本国の元首」と位置付ける。

 前文にはほかにも見過ごせない点がある。「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重する」としていることだ。国防や基本的人権の尊重を国民の義務とする。

 「国旗、国歌の尊重」「公益や公の秩序に反しない」「家族は互いに助け合う」「地方自治の負担を分担」「緊急事態で国などの指示に従う」…。各条文でも、現行憲法にはない国民の義務がめじろ押しになっている。

 憲法の尊重義務の対象からは「天皇」が消えて、「国民」に置き換わっている。

 これでは、国家ではなく国民を縛る憲法にならないか。

 現行9条の戦力不保持や交戦権の否定が削られ、国防軍の創設が加わってもいる。国民を縛って軍部の暴走を許し、戦争に至った教訓はどこへ行ったのか。

   <徴兵制にならないか>

 この草案通りの憲法を持った日本がどんな社会になっているのか想像してみる。

 首相は安保法制に絡む国会答弁で「徴兵制は憲法違反であり、導入する余地はない」と述べた。憲法が変わればどうか。軍ができ、国民には国防義務がある。徴兵制への道が開かれないか。

 表現の自由は大幅に制限される恐れがある。例えば、反政府的な集会やデモは「公益や公の秩序」に反すると判断され、規制されることも考えられる。

 尊重義務を求める君が代も、本当に歌っているかどうか口元を監視した大阪の高校のような動きが広がりかねない。思想信条の自由も危うくなる。

 福祉が後退する可能性もある。家庭が困窮しても「家族が助け合う」義務を盾に、生活保護の申請に高いハードルを設けることなどが想定される。

 憲法学者の樋口陽一氏は、現行憲法で一番肝心なのは13条だと強調する(「個人と国家」)

 〈すべて国民は、個人として尊重される〉

 個人の生き方、可能性を自由に発揮できる社会の土台になると考えるからだ。立憲主義の到達点とも表現する。

   <「個人」はどこへ>

 草案はこの「個人」を「人」に変えた。その理由は自民党のQ&A集で説明されていないが、草案の起草委員会事務局長を務めた磯崎陽輔氏の「草案解説」では「個人」は「個人主義を助長してきた嫌いがある」としている。

 全体主義に対抗して一人一人を大切にするのが「個人主義」だ。その理解を欠き、自分の利害だけを考える「利己主義」と同一視していることが読み取れる。

 浮かぶのは、個人の多様性を大切にすることより、特定の価値観に基づく国家を優先する社会だ。

 元首相の故宮沢喜一氏はかつてこう述べたことがある。

 「この(現行)憲法の主人は国民自身であり、国民が憲法を使うのであって、憲法が国民を使うのではない」

 草案では主人が逆転し、憲法が国民を使う。多くの犠牲を生んだ戦争の反省から築かれてきた民主主義の土台は崩れる。

   ×  ×  

 安倍首相の改憲路線の問題点を今後も社説で掘り下げていく。 

(5月4日)

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