2011年7月29日金曜日

永井荷風年譜(13) 明治42年(1909)満30歳(2) タトゥーあり 「さうきち命」 「こう命」

永井荷風年譜(13) 明治42年(1909)満30歳(その2)
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この夏、新橋新翁家の富松(吉野コウ、24歳)を知って交情が深まる。
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この頃、浜町不動新道の私娼・蔵田よしと懇ろになっている一方で、この夏から翌年9月頃まで新橋新翁家の富松(吉野コウ)と深い関係になる(翌年9月に彼女は落籍される)。
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二人は、「さうきち命」「こう命」と互いに腕に刺青をしあったという。
実際、荷風は後年までもその刺青部分を絆創膏で隠していたという目撃証言もあるらしい。
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富松は評判の美人であったが、荷風はあろうことか、富松とつきあっている間に、のちに結婚することになる八重次(内田八重、藤蔭静枝)とも浮気をする
(その八重次とはのちに離婚)。
しかも、富松がその現場に踏み込み、女同士の取っ組み合いが始まったそうだ。
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富松(吉野こう)は、大正6年6月6日、30歳代前半の若さで没することもあり、荷風は後々までも未練を残していたようだ。
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荷風は間もなく夏目漱石の依頼により「朝日新聞」に小説「冷笑」を連載(明治42年12月~翌年2月末)するが、その中に30歳の小説家が登場する。
「私は文学者の一番苦労しなければならない点は文章だと云ふのです」と述べ、荷風を代弁をさせている登場人物のその名前が「吉野紅雨(よしのこうう)」となっている。富松の本名を殆どそのまま使っている。
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随筆『きのふの淵』(昭和9年11月)(段落を施す):
「わたくしは江戸ツ児の性情には、滑稽諧謔を好むくせがあって、悲境に沈んだ時には此の癖が却て著しく現れて来るらしい事をたしかめた。
富松は三代つゞいて浅草に生まれた江戸ツ児であった。
その後心易くなるにつれ私はたびたび芸者家まで尋ねに行つた事もあつたが、火鉢の緑に頬杖をつき襦袢の襟に頤を埋めてゐる様な、萎れた姿を一たびも見た事がなかった」
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「文藝倶楽部」大正元年9月号には、「清楚」と見出のついた「新橋新翁家・富松」の写真が1ページ大に紹介されているくらい美人で評判だったようだ。
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「萬朝報」大正5年6月30日~7月4日に富松のインタビュー記事が連載。
タイトルは「女から見た男」。
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1回目。
「私が初めて逢いましたのは、荷風さんが帰朝したばかりの頃で、帰朝のお祝いを、亡くなられた大野病院の院長さん(故大野酒竹氏)や何かゞ高輪の萬清でお開きになりました。
その席へ新橋から五六人呼ばれて行ったその中に私もいたのです。
私は、新橋で新翁家の富松といって、まだ抱えの身分でした。---二十のときのことです。
(略)
それから、その翌日も、また翌々日もお茶屋から永井さんに呼ばれたのです。

『私、あの方、様子がいゝから岡惚れにしようかしら』なんて云っている頃でしたから、逢えば嬉しゅうござんした。
そうしてる内に、---あの方はまだ待合なんてご存知なかったのでしょう---『知った待合へ連れて行っておくれ』と云いますから、私の馴染の家へ連れて行ったのです。
それは例の木挽町の祝い家、勘弥さんの姉さんの家です。
それがまた私の旦那の来る家でしょう。その家へ永井さんを連れ込んで私があんまりパッパッするものですから、とうとう旦那に知れてしまって、首尾の悪いったらなかったのですよ。

でもその頃はお互いにのぼせ詰めて『壮吉命』なんて腕に入れ墨をするほどになっていたんですからね。
それからメチヤメチヤに逢うようになってしまったの」
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2回目(7月1日)
「でも荷風さんはまだお部屋住みでお父さんにお小使を貰っているという身分でしょう。
小説を書くとはいったところで、まだ月々百円ぐらいの収入しかないし。
それに私の方はとうとう旦那をしくじってしまったと来てるでしょう。二人ともたちまちどうすることも出来なくなってしまいました。
それでも荷風さんの書く物がポツポツ評判になってきた頃でしたから、私はお座敷でのろけてばかりいました。

(中略)
それからお正月早々、私を落籍した旦那が、これも帰朝のお祝いにそのとき初めて呼ばれまして、その席で、私は大変に酔って、さかんに永井さんのお惚気を云ってしまったの。
・・・

それから八日間というもの旦那は私を遠出に連れていってしまったのです。その留守に、永井さんは私の家へ幾度も来たり電話をかけて下すったりしたのですけれど、家でも私の居所は分かっていなかったのです。

こうして永井さんにしばらく逢わずにいますと、私の軒並みにいた巴屋の八重次と永井さんがおかしいというのでしょう。
その噂を耳にはさむと、胸の虫が承知しません。
『八重次の義理知らずめ。今にどうしてくれるか見ているがいい。』
口惜しくて口惜しくて私はこう思いました。
『永井さんも永井さんだ。』

その日、車で髪を結いに家へ帰ってきますと。八重次のやつめ、永井さんと出雲町の藤田へ這入って行くところではありませんか。
私はすぐ後から押しかけて行ってやりました」
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3回目(7月3日)。
「藤田へ飛び込んでゆくと、八重次が永井さんと差し向かいになってコソコソいちゃついてるじゃありませんか。
『やい、お前さんは誰に断って昼日中永井さんをこんなところへくわえ込んだのだい。』ッてね、さんざん八重次のやつに毒づいてやりましたよ。
それから取っ組み合いになるほどの喧嘩をしてしまったの。

でも私は、捨てられるのはいやだから、『こんな人ぐらい、欲しけりやこっちから呉れてやってしまえ』と、威勢よく啖呵を切ったまではよかったが、それからきまりが悪くなって、とうとう二円のお祝儀を藤田の給仕に散財して帰ってきました。
(略)」
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4四回(7月4日)。
「それから永井さんのお父さんがお亡くなりになると八重次がその家へ入り込んだのです。

その間に私も落籍されまして、赤坂に三吉野(料理屋)を始めたり、その土地から(〆勇と名乗って)出たり、……いろいろに変転しましたのです。

私が麻布へ出るとまもなく、永井さんが柴田さん(待合)から七度も呼んで下すったのですけれど--もう永井さんは八重次を止していたのです - 私は、すっぱり断ってしまいましたの」
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八重次と離婚をした後も、富松にアプローチしたようだが、「すっぱり」と振られている。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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