2011年7月3日日曜日

「朝日 論壇時評」 高橋源一郎「原発と社会構造」

6月30日付け「朝日新聞」の「論壇時評」は、高橋源一郎さんが纏めた「原発と社会構造」をテーマとしたものだった。
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取り上げられた論文などは以下。

1.木下武男「東電の暴走と企業主義的統合」(POSSE11号)

2.今野晴貴「現代労働問題の縮図としての原発」(同)

3.開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)

4.「週刊東洋経済」の特集「身を守る科学知識」(6月18日号)

5.「宣伝会議」の、科学技術の専門家への疑問に関する論考(6月1日号)

6.鷲田清一「見えないもの、そして見えているのにだれも見ていないもの」(科学7月号)

7.宮崎駿氏から首相へのメッセージ
       http://www.youtube.com/watch?v=fOrIuDBaivI

8.6.11★新宿・原発やめろデモ!出発前02●小熊英二さん(社会学者) 
       http://www.youtube.com/watch?v=Ki2KI9pmXto

9.作家・矢作俊彦の「鼻をつまんで菅を支持する」
       http://togetter.com/li/153442
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1について。
原発事故の原因の一つが労働組合だと書いた。
「労使癒着」によって「チェック機能の完全喪失」が生じたのである。
木下は、戦後の労働運動の歴史を振り返る。1950年代に起きた民間大企業の争議で、産業別労働組合を中心にした労働運動側は敗れた。
その結果、「労働者は企業ごとに横に分断され、つぎは、この閉ざされた空間のなかに、縦へ上昇する『競争』システムが組み込まれることになった」。
「労働者」は「カイシャイン」になったのである。
この「企業主義的統合」は、やがて新しい「格差」を産む。
正社員は中間層として、下請け労働者を管理する存在となる。
木下は、東電のある社員の「ラドウェイ作業(廃棄物処理)は、被ばく量が多いので請負化してほしい」ということばに、「企業的統合」の行き着く先を見ている
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2について
その請負労働(被曝労働)の中身を見つめる。
原発は、様々な「被曝労働」を必要としている。
その中でもっとも危険なものの一つは、定期点検中の清掃作業で、それを担当する下請け作業員は「農村や都市スラムから動員される」のだ。
そして、彼らの姿は、「電力の消費地帯としての東京」からは見えないのである。
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3について
開沼博は原発と地域社会の関係に注目する。
なぜ、原発は「福島」にあるのか。その謎を徹底的に追及した。
まだ20代の、福島県出身の大学院生の修士論文が一躍脚光を浴びることになったのは、ぼくたちがもっとも知りたかったことが書かれているからだ。
福島に原発が到来した理由を調べることは、「原子力」を鏡として、戦後そのものを、あるいは、近代140年の歴史を見つめ直す試みでもあった。
3月11日の直前に完成した、この長大な論考は、その日を予期したかのような発見に満ちている。
著者がいう「原子力ムラ」は、いわゆる、中央の、原子力を囲む閉鎖的な官・産・学の共同体のことではない。
福島のような、原発と共に生きることを選んだ地方の「ムラ」のことだ。
「成長は中央はとってのものであり、ムラにとってのものではなかった」。
その中で「原発誘致」が始まる。
「福島第一原発建設計画は『東北のチベット』と自称しながら困窮に悶えるムラの発展をかなえる『夢』」として提示された。
確かに原発は一時の繁栄を「ムラ」に与えた。
だが、結局は、「ムラ」を「原発依存症」にしただけではなかったか
気づいた時にはもう他の選択肢はなかった。ぼくたちに、そんな「原子力ムラ」のぽんとうの姿は見えなかったのだ。
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開沼博「なぜ私たちの社会が戦後を通して原発を是とし維持してきてしまったのかという問いに冷静に、真摯に向き合うこと」はコチラ
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6に関して、
原発事故は、ぼくたちが「見えない」ものに囲まれていることを明らかにした。
「原子力の世界」の内幕が「見えない」、「原子力工学の研究者」の考え方が「見えない」。
多くのものが「見えない」ままだ。
だが、「見えているのに見てこなかった」ものはさらに多いのではないか、と筆者は付け加える。
木下や今野はぼくたちが「見てこなかった」労働者を白日の下にさらし、開沼は「見てこなかった」ムラを提出する。
ぼくたちひとりでは「見えない」ものも、専門家は見せてくれることができる。
だが、専門家が見つけたものにはそれを「見よう」という強い意志を持つ、ぼくたちのような素人が必要なのだ。
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7、8、9に関して
それらのことばは、一見、関係ないようでいて、彼らの「専門」との深い関連を感じさせる。
共通しているのは、忘れられていた「みんなで上(未来)を向こう」という思いではなかったか。
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高橋源一郎「朝日 論壇時評」
8月25日掲載分はコチラ
9月29日掲載分はコチラ
10月27日掲載分はコチラ
11月24日掲載分はコチラ
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2012年4月26日分
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玄海原発の再稼動に関して、立地県側の知事・町長は「安全問題はクリア」されたといって、国が求める再稼動を受け入れる方向だ。
これに対して、保安院の示す安全基準の杜撰さを指摘するムキが多い。
これはこれで指摘する必要がある。
さらに、安全基準の中身とは別に、一体、保安院は安全チェック機関なのか、原発推進機関なのかという、いま正に提出されつつある問題をそのまま引きづったままの保安院の存在自体も問題だ。

しかし、いま佐賀県や玄海町に、特に上記の3と同じような構造があるとしたら(ある筈だと思うが)、これを誰がどういう角度で批判するのだろうか、或いは批判することができるのだろうか、と思う。

つまり、必要性だの安全性を前面に出して入るものの、それらはつまるところの「原発依存症」(交付金や雇用など)を覆っているだけだったとしたら、安全性・必要性を批判するだけで問題は解決するのだろうか、と思う。

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