2013年6月8日土曜日

長元2年(1029) 正四位下源経頼(44歳)が蔵人頭となる 忠常追討使の戦果なく次官成通を更迭

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-04
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長元2年(1029)
この年
・これ以降、「小野宮年中行事」が成立する
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正月二十二日
・朝廷で大がかりな除目(任官)の式が始まる。
会議は3日間行なわれ、24日、定例の人事異動が発表。
その結果、7人の参議のうち、3人までが権中納言に進み、その後を迫って、蔵人頭藤原重尹(しげただ)・左中将源顕基が参議に任ぜられた。
2人いる蔵人頭のうち1人が参議に進み、蔵人頭1人欠員になった。

3日後、27日、先日の異動で左中弁から右大弁に進んだばかりの正四位下源経頼(44歳)が蔵人頭に選ばれた。
右大弁の仕事はそのまま勤める一方、蔵人頭の職も行なう。これを頭弁(とうのべん)という。
源経頼は道長の舅であった左大臣源雅信の孫で、父は参議左大弁源扶義(すけよし)である。
経頼は、翌年、参議に昇進し、公卿の末席に連なる。

経頼は、長徳4年(998)13歳で、下級官人にとっては生涯最後の到着目標であり、上級者にしてみれば官吏生活の出発点である従五位下の位を受けた。
しかしその後の昇進は遅く、長和3年(1014)29歳になってようやく左少弁という、やや日の当たる立場の官についた。
以降、蔵人や内蔵頭なども兼ねたが本官は弁官として通し、さらに15年間務に携わってコツコツと昇進し、蔵人頭になりそして参議に辿りついた。
彼が参議になった同じ年、藤原兼頼(父は道長の子、権大納言頼宗)は17歳で従三位左中将(非参議)となり、翌年には参議に進んだ。
ところが、兼頼は既に従三位なので、経頼を含めて3人いた四位の参議の上に入ってしまった。営々辛苦を重ね、事務に練達し40歳の半ば越した経頼が、僅か18歳の青年に追い越されてしまった。
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2月
・東海・東山・北陸道諸国に対して、直方に協力して忠常を追討せよとの2度目の追討官符が出された。
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3月2日
・この日、薩摩守巨勢文任と香椎宮司、高田牧司宗形妙忠(むなかたのたつただ)朝臣から、右大臣藤原実資に唐物が献上された。
この唐物は前年博多に来航した宋商人周文裔と交易して入手したものだろう。
巨勢文任は実資家の家司で、宗形妙忠は小野宮家が筑前国に所有していた荘園の荘官だった。
この時、周文裔から、高田牧司を通じて実資宛に書状・贈り物と太政官宛の書状が送られてきている。周文裔からの贈り物の目録をみると、手のこんだ絹織物や香料類だったことがわかる。
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12月
・忠常追討使が下向した後、直方から政府に戦況報告書は届けられていない。
合戦らしい合戦はなく、戦果らしい戦果のないまま、追討使直方らはいたずらに歳月を費やしていた。
しびれを切らした政府では直方更迭が問題になり、12月の対策会議で追討使次官成通の更迭を決めた。
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