2014年1月1日水曜日

明治37年(1904)5月 夏目漱石の戦争詩、新体詩「従軍行」(『帝国文学』) (その2)

自宅近くの公園 2013-12-30
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■動機
漱石には「個人主義」思想と「国家主義」思想が併存しる。
平時には、前者が彼の思想や感情を支配しているが、日露開戦に至って、日本が負けたときの犠牲や被害の大きさを思い、「不安で堪らない」ようになり、一日も早く日本の勝利のうちに戦争を終らせたいと思うようになった。
そのため、このような戦争詩を書いたと思われる。

■キーワード
「従軍行」全体にある暗さや「罪」(第四連)の意識

■一般的評判
発表当時、漱石の講義を受けていた学生の間では、このような空疎な詩を発表されては英文科の面目に拘わるという批判の声さえ上がったという。
それも頷けるような、講談調の月並みな文句が連ねられている。
漱石のような人物までもが、このような空疎な詩作品を作り、それを世に問いたいほどに当時の社会が昂揚していたということか。

この詩の空疎さは、何よりも作者が、傍観者であるにもかかわらず意気を挙げている、その非当事者性にある。
「講談調」とは、あたかも歴史物語のように戦争を眺め、他人の活躍と悲劇に興奮する気分を指している。

■評価
森田草平は、「私は別段感服しなかつた。(何処に待望された鬼才漱石を待たなければ出来ないやうなものがあるかとさへ思った位である)」(『漱石先生と私』上)と述べる。

金子健二(漱石の「英文学概説」講義を聴いていた東京帝大の学生)はその日記の中で、「英文科の某君は”こんな拙いものを書かれては我等英文科の名誉を汚がす”と酷評した。純然たる時代思想に便乗した平凡な客観詩である。夏目先生に不むきな題材だと思った。」(『人間漱石』)と記し、「純然たる時代思想に便乗した平凡な客観詩、漱石に不むきな題材」とみる。

大岡昇平は、「従軍行はあまりよい出来ではない」、当時の戦争鼓吹の戦争詩は「国民の集団的意志を表現しているが、」漱石のこの詩には「戦争を個人の力闘の範囲に圧縮しているところが違っている」と言っている(『小説家夏日漱石』)。

江藤淳は、「『従軍行』が空疎な駄作であることはあまりにも歴然としている。わずかにイメージに生彩があるのは第四節であるが、それはむしろ彼の眼に映じていた生のイメージであって、戦争と強いて関係づける必要のないものである」(『漱石とその時代』第二部1970年 新潮社)と評している。

伊豆利彦は、「漱石の『従軍行』は詩としてすぐれたものではなかった。類型的な表現からも自由ではない。しかしそこにはロシアに対する悪罵の言葉や、戦争を美化し、国民をあおりたてるような景気のいい、勇ましい言葉はない。むしろこの詩から感じられるのは重苦しい圧迫感であり、孤独感であり、暗い宿命、罪と呪いの匂いである。戦争詩一般の上昇的な気分に対して、ここにあるのは下降的な気分である。ここには漱石の暗い緊迫した心があり、孤独ではげしい戦の意志の表明はあるが、それはむしろ暗く寒く暗澹としていた。(中略)ここには集団としての軍隊の姿はなく、単騎太刀をふりかざす孤独な戦士の姿だけがある」(『漱石と天皇制』1989年 有精堂出版)として、他の戦争詩とは異なる独自性を考察している。

■自己評価
創作当時の漱石のメモ(「断片」)に、会話体の「自己批評」とも読める文章がある。

「僕は新体詩を作ったから見てくれ給へ従軍行と云ふのだ帝国文学へ投書したから今に出るだらう」「それは面白いだらう見せ給へ、エー何だって抑も敵は讐なれば、成程御尤もだ、油断をするな士官下士官、何だか妙だね(中略) 士官下士官とはなんだまるで狂歌の下の句見た様だね「然し士官、下士官と士官を重ねた処が甘いだらう」「恐らく三日三晩苦心したのだらう」「なにそんなに名句の積りでもないのさその位な事は朝食前の芸さ」「何でも腹の減って居る時の句に相違ないと思った先づ是等は進めや進めと敵は幾万の間に寝転んで居て此日や天気晴朗と来ると必ず一瓢を腰にして滝の川に遊ぶ類の句だね、然し戦争の詩歌も段々出来た様だが中々面白いのがあるよ」
引用部分の最後は、後に書かれる『吾輩は猫である』のなかで、迷事が「月並」の説明をする台詞に酷似している。

■表現の特徴
「従軍行」の表現の特徴の一つは、作者が先頭に立って兵士たちを叱咤激励しているのではなく、従軍している兵士たちの内部へ入りこんで、一人称の「ワレ」の視点から、彼らが見た情景や内面の心情を描いていること。
一人称の「ワレ」及び「ワガ」の表記は、第一連と第二連では「吾」、第四連が「我」、第六連が「われ」、第七連が「吾」と書き分けられていて、それぞれが別の人物であることを示し、複数の人物が登場する劇詩的な手法と言える。
これは、この詩作の直前に翻訳したオシアンの「セルマの歌」と「カリックスウラの詩」(『英文学叢誌』第一輯1904年2月 文会堂)の手法を取り入れたものとも思われる。
しかし、技術的な未熟のためや、戦争への決意や情熱が欠けているため、それが成功しているとはいえない。
このような戦いへの意欲の乏しさは、各連の表現にも表れている。

第一連では「吾に讐あり」を反復し「讐」という語を五回も用いているが、なぜ「吾」にとってロシアが「讐」なのかがよくわからない。

第二連ではロシアが「讐」である理由を「傲る吾讐、北方にあり」としているが、「傲る」が具体的にどういう行動を指すのかが不明。また、遠く戦場へ赴く理由を「天子の命」があったから「臣子の分」として行くと、「忠君愛国」思想を述べているが、「吾」の自発的な意志として行くのではなく、「臣子」の義務として仕方なく行くというようにも読み取れる。
第一・二連において「吾」は、「讐」の存在と従軍の必要性を自分自身に言い聞かせているかのようだ。

第三連は、実際に敵を倒した戦闘時のことを表現したものではない。
「従軍行」執筆までには日露間にまだ本格的な陸戦はなく、敵味方が一対一で刃を交す戦闘もない。兵士(おそらく将校)は、「折れぬ此太刀」(天皇から授与された恩賜の軍力かもしれない)に手をかけ、敵を切り倒す自分の姿を想像して、戦闘に赴く自らを勇気づけようとしているかのようだ。「吹くは碧血」「骨を掠めて」などの血なまぐさいイメージも、登場人物の空想の中に現れたもので、壮絶な感じを起こさせるものではない。

第四連は、勇壮感なく暗い悲壮感が漂い、幻想的な雰囲気ながら、実際の海戦を思わせる現実感もある。
漱石がこの詩を書くまでに行われた海戦は、宣戦布告以前に奇襲した仁川沖の戦いや旅順港襲撃があるが、この詩のイメージに近いものは、旅順港口閉塞作戦である。
第1回閉塞作戦は2月24日、第2回は3月27日、第3回は5月3日に決行されたが、作戦は失敗に終った。「従軍行」執筆は第2回と第3回の間で、漱石は第2回作戦の新聞報道などをもとに想像して第四連を書いたと思われる。
「さと閃めくは、罪の稲妻」は、ロシア軍の探照灯によってあたりが照らし出され、敵弾が広瀬を撃ち殺したことをいうのでらろう。この「罪」はロシア軍だけの「罪」ではなく、戦争という殺し合いをする限り両軍ともまぬがれない「罪」であり、漱石が意識していた中国・朝鮮に対する「罪」の意識でもあった。「我」は、「端舟」(=ボート)に乗り移った「乗員」の一人を想定したものであろう。

第五・六連は、満州でくりひろげられる陸戦の情景や兵士の心情を表現したものである。
第五連には一幅の戦争画のような趣があるが、類型的な表現を免れない。

第六連は第五連の続き、命を賭けた「われ」の奮戦と武士的な勇気が描かれている。「見よ兵等」「開けや殿原」と名乗りを挙げて戦う「武士」の姿は、近代戦というよりも戦国時代の合戦を思わせる。
また、第五・六連の戦闘場面は作りものじみて、戦いへの真の意欲に欠けている。
第六連3行目「これの命は」は、「われの命は」の誤植ではないかと思われる。

第七連は、従軍中の兵士が、戦いが終って自分の武名が挙がり、敵軍が全滅して日本の国威が揚がり、よろこぼしい平和の日々がやってくることなどを願っていることを描いている。
兵士は、「瑞穂の国」を守っているという「八百万神」に向かってその加護を祈っている。
漱石は、かつて神話と歴史を混同している国粋主義者たちを「高間原連」(1891年11月10日付子規宛書簡)と椰愉したことがある。
「従軍行」執筆の頃も、「八百万神」の存在を信じていたはずはないが、従軍兵士が自分の生命の安全や日本国の勝利や平和の到来を「八百万神」に祈る気持には共感できた。
第七連には、日本の勝利のうちに早く戦争を終らせたいという作者の心情が表れている。

■漱石の戦争観
漱石は、前年(明治36年)9月から大学で『英文学概説』(のち『文学論』1907年刊)を講じていた。
その第1編第3章で次のように述べる。

親の為めに川竹に身を沈め、君侯の馬前に命をすつるは左迄難さことにあらず、親は具体的動物にして、君侯は耳目を具有し活動する一個人なるを以てなり。されども身を以て国に殉ずと云ふに至りては其真意甚だ疑はし。国は其具体の度に於て個人に劣ること遠し。これに一身を献ずるは余りに漠然たり。抽象の性質に一命を賭するは容易のことにあらず。若しありとせば独相撲に打ち殺さるゝと一般なり。故に所謂かく称する人々は其実此抽象的情緒に死するにあらず、其裏面に必ず躍如たる具体的目的物を樹立しこれに向って進み居るものとす。

個人に殉国を強いる政府やマスメディアを批判した。
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