2025年12月28日日曜日

大杉栄とその時代年表(722) 1907(明治40)年4月 明治40年4月、三木露風(数え19歳)は、早稲田系統の雨情野口英吉(同26際)、御風相馬昌治(同25歳)、介春加藤寿太郎(同23歳)、東明人見円吉(同25歳)等とともに、早稲田詩社を組織した。

 

三木露風

大杉栄とその時代年表(721) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑥終〉 大正4(1915)年 「先生あんたはんは女子はんにおほれやしたことおすか」と尋ねたことがおした。 すると先生は一寸真面目な顔で、「僕だつてあるさ」とおっしゃってどしたわ。(磯田多佳) より続く

1907(明治40)年

4月

韓国、新民会結成

1906年末頃、サンフランシスコの抗日運動団体共立協会の安昌浩、李剛(イ・ガン)らが新民会結成に合意し、大韓新民会趣意書及び通用章程を起草。

1907年2月、米国から安が帰国し、同志を募る。勧誘された梁起鐸(ヤン・ギタク)が公開結社を提案したが、最終的に秘密結社とする案に賛同。

4月、漢城府で新民会を結成。総監督(党首)には梁起鐸、総書記に李東寧(イ・ドンニョン)、会計は全德基(チョン・ドッキ)、会員の資格審査を担当する執行員に安昌浩。李東輝(イ・ドンフィ)など他の創建委員は各道の総監を務めた。

当時の愛国啓蒙団体の主要メンバーが多く参加し、啓蒙運動の中枢的機関となり、1910年頃には会員数が約800人に達した。機密漏洩を防ぐために入会審査は厳重に行われ、入会時には誓約の儀式まで行われた。

1911年、組織壊滅を狙った朝鮮総督府により、のちに105人事件と呼ばれる大規模な弾圧事件が起き、関係者数百名が検挙されて事実上解体。(Wikipediaより)

4月

韓国、ハーグ密使事件。

初め、ホーマー・ハルバート、朝鮮に戻り、高宗にハーグへの密使派遣を提案。2人は前議政府参賛の李相萵(イ・サンソル)を選ぶ(北間島に移住農民のための「瑞甸書塾」を開いた近代教育の創始者)。つぎに、前平理院検事李儁が名乗り出る。

4月2日、イ・サンソルが、続いて李儁が出国

5月8日、ハルバートもハーグへ向かう。イ・サンソルと李儁はウラジオストクで合流、ペテルブルクに向かう。ペテルブルクで前ロシア駐在公使李範晋と会い、各国語に通じる前公使館付参事官李瑋鐘(李範晋息子)を同行するよう勧められる。

4月

樺太庁設置、初代長官は樺太守備隊楠瀬幸彦(陸軍大将)が兼務。初代長官以外は文官が就任。

4月

「新報」第2代主幹天野為之、引退、編集・営業一切を植松考昭(31)・三浦銕太郎・松岡忠実・松下知陽に託す。4名は合名会社を組織、植松が代表社員・主幹となる。

植松考昭:

1876(明治9)年彦根藩士の家に生れる。1896年東京専門学校卒、1898年「新報」社入社。在学中より片山潜と交際。1897年11月、片山・高野房太郎らが「労働世界」を創刊すると記者となる。「新報」社入社後も「労働世界」に起稿、「新報」にも片山論文を掲載。1909年夏、片山を「新報」社に入社させる。1912年(大正元)年9月に急逝(36歳)するまで「新報」の急進的自由主義の原型を確立。元老政治を批判(藩閥官僚・政党ともに憲政の敵手たる元老政治の支柱となっている)。論説「議院改革」(3月5日~4月15日)で普選を要求。

4月

田中正造・福田英子ら5名、栃木県収用審査会に意見書提出。

4月

新村忠雄、上野の東京勧業博物会見学の際、京橋区新富町の平民社を訪問、始めて幸徳秋水と会う。

新村忠雄:

明治20年4月26日生まれ。埴科郡屋代町の高等小学校卒業、1年間補習科。明治38年3月、17歳で上京、浅草須賀町のキリスト教会で過す。39年5月帰郷、養蚕を手伝う。40年1月15日、「平民新聞」創刊後ただちに定期購読。

4月

税法整理案審査会開く。会長大蔵大臣坂谷芳郎。

4月

栃木県に安蘇郡立佐野高等女学校(現・栃木県立佐野東高等学校)開校。

4月

東京で2番目の映画常設館、神田新声館、3番目の浅草三友館が開業。

4月

岩野泡鳴「自然主義的象徴詩論」(「帝国文学」)

4月

早稲田詩社、結成

三木露風は尾上柴舟の車前草社に入って短歌を作っていたが、その志は詩作にあった。彼は明治39年10月、「雨ふる日」、「古径」、「鐘鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表した。「芸苑」は、明治35年2月上田敏が文友館から出し、一冊きりで廃刊したが、明治39年1月から、馬場孤蝶、生田長江、森田白揚等とともに再興して左久良書房から刊行していた。三木露風は明治38年10月に出た上田敏の「海潮音」の影響を受けたが、上田敏もまた露風の才能を認めて、明治40年に入ると、毎月のようにその作品を「芸苑」に載せた。

三木露風は「芸苑」に作品を発表するとともに、尾上柴舟の車前草社から離れて、詩作に専念するようになった。明治40年4月、三木露風(数え19歳)は、早稲田系統の雨情野口英吉(同26際)、御風相馬昌治(同25歳)、介春加藤寿太郎(同23歳)、東明人見円吉(同25歳)等とともに、早稲田詩社を組織した。露風以外の4人は、人見束明が明治38年11月から麻生茂という醸造家の出資で出していた詩の雑誌「白鳩」に執筆していた。「白鳩」は、明治39年4月で廃刊となった。

相馬御風は明治39年に早稲田大学の文科を卒業したが、その年すでに歌集の「睡蓮」を公にしていた。彼は卒業後抱月の下にあって「早稲田文学」の編集に当っていた。明治40年4月、島村抱月は彼に言った。

「友人がばらばらに詩を作っているのも個性を出すためにはよかろうが、気心を知り合った者同志で詩社を作り、意見を交換しながらお互に切磋琢磨して行ったならば詩作効果が上るのではないか。人見君などと相談して見たまえ。もし詩社が出来たら舞台として『早稲田文学』の一部を貸してもよい。」

この抱月の言葉に勇気づけら打て、相馬は人見を訪ねた。そして同年輩の4人の外に若くて天才的な存在であった三木露風を誘い、5人で早稲田詩社を作った。同じ頃、河井酔茗が中心となって詩草社が作られたので、この二つの詩社はこの年の新しい詩壇の動きとして注目され、論評ざれた。「早稲田詩社」同人の作品は、「早稲田文学」のみでなく、「太陽」、「中央公論」、「文章世界」、「趣味」、「文庫」、「新潮」等に発表されるようになり、その同人たちはそれぞれ若手の詩人として注目されるようになった。 (日本文壇史より)

4月

東京自動車製作所技師内山駒之助、ガソリン自動車第1号製作。

4月

東海セメント株式会社創立。静岡県、資本金30万円。


つづく

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