2026年1月20日火曜日

大杉栄とその時代年表(741) 1907(明治40)年7月26日 茅野蕭々(25歳、東京帝国大学独逸文学科2年生)と増田雅子(28歳、「明星」第一期同人、新詩社を代表する女流歌人)、結婚。 茅野儀太郎、安倍能成、岩波茂雄の交友

 

増田(茅野)雅子

1907(明治40)年

7月26日

大阪市立大阪盲唖学校設立。

7月26日

4月10日に師団新設用地買収費に関し、坪当たり20銭の補償を要求して郡役所に屯集した京都府紀伊郡深草村の小作人、再び屯集。

7月26日

帝国製麻株式会社設立。日本製麻と北海道製麻との合併。

7月26日

この日付け漱石の三重吉宛手紙

「『虞美人草』はだらだら小説七顛八倒虞美人草と名づけて未だ執筆中」

7月26日

苜蓿社の主宰者であった大島経男、恋愛結婚の破綻から靖和女学校教師の職を辞して故郷日高国下下方村に帰る

7月26日

茅野蕭々と増田雅子、結婚。


「明星」同人暮雨茅野儀太郎が、3歳上の増田雅子に惹かれるようになったのは、明治37年、雅子が与謝野晶子、山川登美子と共著の歌集「恋衣」の出版を計画している頃のであったが、その頃はまだ「あてやかなる笑ひ様、あどけなき人なり」と日記に書く程度であった。

茅野儀太郎が新詩社に加たったのは明治34年、19歳で諏訪中学の生徒の頃。

増田雅子はその前年、明治33年11月、「明星」創刊の半年後に参加していた。それはその年の夏、大阪の浜寺の集会で与謝野鉄幹が鳳晶子、山川登美子と逢ってから間もなくのことであった。それ故増田雅子は、晶子、登美子とともに「明星」第一期の同人として、新詩社を代表する女流歌人であった。

増田雅子は明治13(1880)年5月6日、大阪市東区道修町一丁目四十二番屋敷に、薬種問屋増田宇兵衛の二女として生れ、まさと命名された。生家は富裕な商家。雅子は5歳のとき母さとを喪い、13歳のとき継母ふじを迎えた。その間に堂島女学校、本願寺系の相愛高等女学校に学んだが、16歳のとき退学し、明治33年、21歳のとき、新詩社に加わった。彼女は山川登美子より1歳年下、与謝野晶子より2歳年下であった。"

茅野儀太郎は明治16年3月18日、長野県諏訪郡上諏訪町四千百九十二番地に、茅野猶太郎の子として生れた。姉2人、妹1人、弟1人があった。父の職業は時計屋であった。明治35年、諏訪中学校を卒業し、その年の9月第一高等学校に入学した。同級生に、野上豊一郎、斎藤茂吉、小宮豊隆、藤村操、安倍能成らがいて、1年上級に安倍次郎、岩波茂雄、吹田順助、上野直昭、荻原藤吉、2年上級には、小山内薫、森田草平、生田弘治らがいた。入学して間もなくの学期試験の成績は、茅野は一番だった。

〈茅野儀太郎と安倍能成〉

茅野が2年生になった明治36年5月22日、同級生の藤村操が日光の華厳滝から投身自殺したことは、これ等の一高生たちに深刻な影響を与えた。藤村操の叔父の那珂通世(みちよ)と共に遺骸の引取りに行った級友の安倍能成は、人生問題に煩悶して、2年から3年になるとき落第した。彼は人生についての解決を求めて牛込余丁町の綱島梁川に私淑し、しばしばその病床を訪ねるようになった。

明治37年、安倍は校友会雑誌編輯委員に選ばれた。委員の中には茅野健太郎、魚住影雄などがいた。前年までの委員、阿部次郎、穂積重遠、吹田順助らは卒業して東京帝大へ進んだ。

安倍が委員に選ばれたのは、前年彼が藤村操の追悼文を校友会雑誌に載せ、級友に愛読されたのか理由であった。安倍は明るい包容力のある性格で、その大柄な身体と顎と額の出張った目と眉の近い冥想的な容貌は学友たちに親しまれていた。茅野が選ばれたのは、「明星」にものを書いている新詩社の同人であることが学友に知られていたからである。

新旧の委員の懇親会が医科大学の鉄門近くの牛肉屋豊国で行われた。前期委員の吹田順助は、上田敏の従弟であった。吹田順助の母かうは、幕末の儒者乙骨耐軒の末女で、その兄で、耐軒の次男絅二(けいじ)が上田家を継ぎ、その家の娘孝子との間に敏を設けた。茅野は吹田に請われて「明星」に載せた歌を吟唱して、出席者の注目を浴びた。

この明治37年8月の「明星」で茅野の歌が大変よく出来ていたのに鉄幹が感心して、茅野には断らず暮雨(ぼう)という号を蕭々と変えて出した。茅野は以後常に蕭々という号を使った。

安倍は茅野と親しくなり行き来した。茅野は寮を出て、小石川区の久堅町に家を借りて妹と2人で住んでいた。やがて安倍はその妹を知るようになった。茅野の兄弟たちの中で、一番上の姉が早く亡くなり、二番目の姉が父の店の支店に嫁いでいたが、明治38年4月この姉が恋愛事件を起して自殺した。それは茅野が第一高等学校3年の終りに近い頃であった。

〈安倍能成と岩波茂雄〉

明治38年、安倍能成は煩悶していた。彼は数え22歳で茅野より1歳年下だった。安倍は前年落第したので、この夏に3年生になった。前々年の明治36年、藤村操が自殺したあと、安倍の1級上にいた岩波茂雄が、人生問題に悩んだ揚句、7月の進級試験を放棄した。岩波はそのとき信州の野尻湖にある琵琶島という小島に一人で住んでいた。対岸の野尻村から石田才吉という少年が時々食糧を運んで来てくれた。岩波の母うたは、息子がそのまま学業を放棄するのを心配してこの島へ来て、やっと彼の気特を転換させた。岩波はそのとき落第して2年生になった安倍や茅野と同級になり、安倍との間に親しい交際が始まった。翌明治37年、3年生になる進級試験に安倍が落ちたとき、岩波はまた落ちた。岩波は同学年で2度落第したので退学になった。

明治38年の夏休み、安倍は郷里松山へ帰らず、前々年の夏岩波が籠った琵琶島へ行った。彼は、その無人の小島に1ヵ月を過し、帰りに諏訪にある茅野の家を訪ねた。彼はの家に2,3日泊った。茅野は、自分の好きな女の人が木曽福島にいるから帰りに是非逢ってやってくれと言った。その人を詠んだ歌として茅野は、

「天なるや青雲うかぶ国なるや見て別れしは神の世なるや」というのを示した。

安倍は諏訪からの帰りに、木曽福島に出、茅野の紹介状をもってその女性を訪ねた。しかしその女性は安倍には少しも魅力的な女とは思われなかった。

翌明治39年春、茅野の妹が自殺した。妹は東京で茅野と同居していたが、恋人があり、その青年が肺を病んでいた。それに同情してその青年と一緒に房州の海へ投身自殺した。茅野は、明治39年6月号の「明星」に「妹よ」という小話を発表した。

その頃、茅野は安倍に向って、自分の姉も妹も恋愛問題で自殺した、と語った。そう語る茅野には、彼自身の中にも、いつ何事を引き起すか分らぬような押えられている激情があった。

茅野は、木曽福島の女性に失恋したか、または増田雅子を愛して容れられないかして、失恋苦を味わっていた。

増田雅子は茅野とちがって明るい魅力のある女性であった。明治37年4月、彼女は上京して、日本女子大学国文科に入っていた。ちょうどそのとき、夫山川駐七郎と明治35年に死別して実家に戻っていた山川登美子が上京して、同じ日本女子大学の英文科に入った。相識の間であったので2人は親密に交際した。登美子はこのとき数え26歳、雅子は25歳であった。その年の秋頃から、晶子、登美子、雅子と三人の合著の歌集「恋衣」を出す計画が出来て、その広告が「明星」11月号に出たとき、その題のためか、又は「明星」派に対する世間の白眼視のためか、学校当局は2人を停学処分にした。しかし鉄幹が講義しそれは解決した。

11月13日、茅野は千駄ヶ谷の新詩社へ行った日記の終りに「恋ごろもの出版、女子大学の方にて何か妨害せしとか、わからぬ人の多き世や、与謝野師の力にて出版することとはなりしとぞ」と書いた。

12月16日の茅野の日記。

「霜いたく置きて塞き朝なり。登校、安倍と運動場を散歩しつ、友は云へらく、君の寂しみは何処より来るや、回想せよ、回想せよ、客観に眺めよ、さらば価値を生ずべさぞと。吾もしか思へり、否、吾殆どこれを知る。吾は吾が身を投げ出して捧げうる人なきに堪へぬなり。あゝ孤懐に堪へずとはまことかゝることを云ふなるべし。(略)」

明治40年増田雅子は28歳。山川登美子は38年11月から腎臓を病み、やがて肺を悪くして、翌年夏には京都の義兄武久寅次郎のもとで療養生活に入っていた。茅野は数え25歳で東京帝国大学独逸文学科2年生で、その頃から雅子に対する恋は激しくなった。この頃、巌谷小波の弟子の生田葵山(きざん)が増田雅子に惚れているという噂がしきりであった。生田は気どったところのある青年作家で、「新小説」や「文芸界」に時々作品を発表していた。39年「大阪新報」に連載した小説「富美千姫」を左久良書房から出したが、発売禁止となった。明治四十年生田葵山は数え32歳であった。

その頃のある日茅野が、自分は恋に絶望したから旅に出ると言ったので、安倍は中央線の起点である飯田町の駅まで彼を送って行った。そのとき茅野は涙に顔を濡らし声を挙げて泣いた。安倍は彼の姉や妹のことを考えて、茅野は生きて再び帰ることがないのではないか、と思った。

だが、5月16日、雅子は茅野との結婚を承諾した。

7月26日、2人の結婚式は、諏訪と大阪の真中という意味で名古屋で挙げられた。馬場孤蝶が媒酌人となった。2人は結婚して新宿の郊外、内村鑑三の近くの柏木に住んだ。


つづく


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