1907(明治40)年
7月13日
呉・越地方での蜂起を計画を暴いた清朝政府、浙江紹興で首謀者女性革命家の秋瑾(32)を逮捕。15日処刑。
〈Wikipediaより〉
日本での孫文らの革命運動の高まりを警戒する清朝政府の要請と、大陸における利権確保に動いた日本政府により、中国革命運動に対する取締りが強化され、1905年(明治38年)11月、清国留学生に対する取締規定が厳格化された。
秋瑾は、これに抗議して全員総引揚げを主張し12月に帰国した。
帰国前、中国留学生会館で開かれた浙江同郷会の集会での秋瑾の様子について、魯迅の弟周作人は著書『魯迅の故家』で次の様に書く。
「留学生はこぞって反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味でないことを知っていたから、賛成しない人が多かったが、この人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している」。
秋瑾は、帰国後、少女時代を過ごした紹興に住み、1907年正月には大通学堂を開校し代表者となる。この大通学堂は、光復会の幹部を訓練し組織化するために設立された革命拠点である。秋瑾はまた、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めた。更に、1907年1月14日には秋瑾らが中心となって、上海において『中国女報』を創刊している。
1907年5月、徐錫麟が安徽省安慶で武装蜂起を計画。秋瑾も浙江で呼応すべく準備を進めた。しかし、打ち合わせた日時の食い違いから、7月6日、先に徐錫麟が、安慶で蜂起し清朝政府の安徽巡撫の恩銘を刺殺したものの、鎮圧・処刑されてしまう。
当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。同志らは秋瑾に一時避難するよう勧めたが、秋瑾は大通学堂に留まった。
7月13日、学堂を包囲する清軍に秋瑾も逮捕。
2日後の1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。31歳の若さであった。
秋瑾の遺句は「秋風秋雨、人を愁殺す」である。その後、多くの人に歌われた。
女性革命家であった秋瑾の処刑は、清当局が想像もしないほど大きな反響を呼び、その後の中国革命運動の精神的支柱の一つとなった。
7月13日
侍従長徳大寺実則、対韓処理に関する天皇の意思を伊藤博文と西園寺公望首相に伝達。
7月19日韓国皇帝光武帝(高宗)、皇太子李坧に譲位の詔勅を発する。以後、各地で排日暴動発生。
7月13日
堀保子と堺利彦が大杉栄の面会に現れる。この頃、大杉栄が獄中でイタリア語を独学していた。
7月14日
対外強硬派衆議院議員河野広中・小川平吉・国家主義団体玄洋社頭山満ら6人、朝鮮合併か委任かの断行迫る建言書を政府提出。<韓国併合論の台頭>
7月14日
(漱石)
「七月十四日(日)、午前中、寺田寅彦来て、今日の『読売新聞』に「単軌鉄道」(モノレール)のことが出ていたと残念がる。『東京朝日新聞』のために同じ主題の原稿を書いていたからである。渋川柳次郎(玄耳)宛葉書で寺田寅彦の原稿掲載を見合わせるように伝える。松根豊次郎(東洋城)来て、謡を四、五番謡う。松枝東洋城から高浜虚子が松山市に帰ったことを知る。松山市にいた時、弓をひいた垜(あずち)がまだ残っていることを聞き、今昔の感に堪えぬ。道後温泉にも行きたいと思う。
七月十五日(月)、寺田寅彦の科学記事を『東京朝日新聞』に掲載するように取り計う。(四十一年十一月十八日(水)まで続く)
夜、松枝豊次郎(東洋城)と『俊寛』を謡う。寺田寅彦・鈴木三重吉・野上豊一郎来る」(荒正人、前掲書)
7月15日
林菫外相、韓国に向け出発。18日、漢城入京。
7月15日
広島県矢野川氾濫し、被害甚大
7月中旬
石川啄木、函館・弥生小学校の無断欠勤始る。
7月16日
韓国、李完用首相、皇帝に譲位奏請。皇帝は拒否。17日にも。
7月16日
この日付けの漱石の高浜虚子宛て手紙
「『虞美人草』はいやになった。早く女を殺してしまいたい。熱くてうるさくって馬鹿気ている。これインスピレーションの言なり」
7月16日
山川均、獄中の大杉栄、石川三四郎、大脇直壽宛に葉書を書く。
7月17日
鉄道及び炭坑授受に関する日露協定調印。
7月17日
富山県下新川郡泊町の貧民婦女500人、米価騰貴のため地主に米輸出の差し止め要求。
7月18日
韓国、第3回午前会議。
閣僚一同、皇帝に譲位奏請求。深夜、高宗は皇太子李坧の国政代理を容認(摂政を容認するが、自らの退位は表明せず)。
7月18日
夕張炭坑同盟罷業。
7月18日
(漱石)
「七月十八日(木)、行徳俊則立ち寄る。渋川柳次郎(玄耳)を紹介し、渋川は、毎朝八時までなら麹町区隼町四番地(現・千代田区隼町四番地) の自宅にいると伝える。上田敏来て、『文學諭』の批評をする。
七月十九日(金)、雨降り続き鬱陶しい。夜、散歩中に野間真綱来て、三省堂の件を名刺に書置いて帰る。比叡山で講話会をやりたいと云ってくる。(大阪朝日新聞社からか)多分行かぬ、暇あれば北の方に行きたいと思う。」(荒正人、前掲書)
7月19日
韓国、午前3時、大韓政府、高宗譲位を発表。
大漢門前広場には5千人の群集。
日本軍官憲鎮圧。王宮占領、市内巡回。龍山の火薬庫制圧。南山山麓倭城台地に野砲6門設置。大漢門前広場の群集排除。日本人警官小出梅太郎巡査が投石で顔面に重傷を受けるや、日本官憲は群衆を銃撃。
夕方、侍衛隊第3大隊兵士40、2隊に分れ、1隊は鐘路巡査派出所を破壊、他の1隊は鐘路で警戒中の警部・巡査4人を射殺。
7月18日
貧困者救済を目的とした東京慈恵会設立(東京市芝愛宕町)。理事徳川家達、大倉喜八郎、渋沢栄一ら、東京慈恵会医院設立。
7月19日
この日付け漱石の小宮豊隆宛て手紙
「虞美人草は毎日かいている。藤尾という女にそんな同情をもってはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞いに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。しかし助かればいよいよ藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲学をつける。この哲学は一つのセオリーである。僕はこのセオリーを説明するために全篇をかいているのである。だから決してあんな女をいいと思っちゃいけない」
7月19日
東京府下西大久保の独歩の自宅で大久保文士会を開催。
独歩は、ある日遊びに来た吉江喬松に、色々な文士が大久保に住んでいるから、大久保文士会をやろう、と言った。吉江は病気の独歩を慰めるためにはいいことだと考え水野葉舟と相談した。大久保には適当な料理屋もないのを聞いて、独歩は、それでは自分の家で開こうと言い、すぐに日は7月19日、会費50銭で鰻丼と決めた。
当日集まった文士は、数え39歳の大町桂月、38歳の戸川秋骨、28歳の吉江喬松、25歳の水野葉舟、29歳の前田晃、24歳の片上伸などであった。
独歩の細君治子はそこに一度挨拶に顔を出しただけで、そのあとば女中とも見えない若い女である奥井君子が座の世話をした。
君子は、3年前に独歩の父専八が死ぬ頃の附添看護婦であったが、そのあとも手伝いのように国木田家に住み込んでいた。治子は君子を女中のつもりで扱っていたが、君子の態度が何となく圧迫的なものに思われて来て、やがて独歩と君子の関係に気づいた。治子はしっかりした女性だったので、君子をこの家から出すようにと厳しく独歩に交渉した。しかし独歩は治子の言うことをまともに取り上げなかった。治子はこの妻妾同居の生活に耐えられず、家を出ることを何度か考えたが、3人の子供のいることを考えると、その決心も鈍った。そのうち独歩の病が重くなると、君子を置くことが手助けとして必要にもなって来た。
(『日本文壇史』より)
7月19日
伊豆鉄道会社、豆相鉄道会社を合併。
つづく

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