大杉栄とその時代年表(209) 1896(明治29)年11月23日 〈一葉日記出版の経緯〉 「日記」の問題点、一葉日記に現れなかった人物などについて より続く
1896(明治29)年
11月26日
群馬県会開会。石阪昌孝、開会式に臨み開会の挨拶。12月25日の閉会には出席。審議中は議会には姿を見せず。議会、足尾銅山の鉱業停止を求める内務大臣宛建議可決。
11月27日
リヒャルト・シュトラウス、フランクフルト・アム・マインで自作の交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」初演。
11月29日
栃木県安蘇・足利・群馬県邑楽の3郡38ヶ町村有志集会。雲竜寺。「精神的契約」署名。
12月5日、団体規約草案のため組織委員会開催。雲竜寺。
15日、規約書議決。
21日、各村、調印。「鉱業停止請願一致の運動」のため雲竜寺に両県聨合協議会事務所を設け「請願上の一切の中心として毎月二回の例会を開く」規定。
11月29日
西園寺公望、サラジー号で横浜を出港し、フランスに向う。
11月末(または12月末、推定)
夕刻、漱石卓にこそどろ。鏡の手文庫を持ち去られる。そのなかは、鏡が毎月5円ずつ貯金していたへそくりが20円入っていた。最初の盗難である。(鋭)
12月
朝鮮、「大朝鮮独立協会会報」発刊
12月
ドイツ、清国に対し膠州湾の50年租借を要求、拒否。
12月
池辺三山(32)、「大阪朝日」主筆として朝日新聞社入社。
帰国した三山は東海散士から「朝日新聞」を紹介、内閣書記官長になる高橋健三が、「巴里通信」の三山を「大阪朝日」主筆の後任に推薦。
東海散士はT鉄崑崙兄」として三山に手紙を書く。
「一、朝日社主は三山の大阪に来るのを待っている、一、東京に住むのは村山(龍平)と相談、一、報酬は120円位、一、村山は俗才だが上野(理一)は正直な君子だから、折合が難しいということはない」などで、三山は全てを了承。
当時月給は村山龍平150円、共同経営者上野理一100、「東京朝日」主筆格西村天囚65円、探訪記者平均23円。尋常小学校正教員平均給12円1銭5厘の時代。
12月29日付「大阪朝日」の「言職」と題する入社の辞。
「社会は各個人に向ひてそれぞれに適応の業務を命ず。而して総ての新聞記者は言職の命を社会に承く。新聞記者が議論を勉むるは農民が耕転を勉め、町人が売買を勉め、職工が製作を勉むると異なること無きなり。吾人も亦此の規則に従ひて勉むる所あらんとす。言は必しも奇ならざるなり。文は必しも麗ならざるなり。古人経世の議論を以て之を菽粟布帛(しゆくぞくふはく)に比し、只その世に有用なるを取る。吾人の言論も若し尋常普通の農産物、工業品に比せらるゝを得ば、則ち幸甚に耐へず」。新聞記者を農工商職の人と同列に置く。「官」を重視しない気組みの表れであり、「無冠の帝王」「社会の木鐸」と云われいい気になっている言論人への戒めでもある。「世に有用なる」記事を書くことを主眼とし、新聞も農産物・工業製品と同じ商品という認識を鮮明にする。言職の職人はいい職人でなければならない。「文章は平明で達意でなければならない」というのが、言論職人としての三山の信条。
翌明治30年の「大阪朝日」社説は、三山入社前より50編余も多い180余編になる。
12月
この年の漱石、子規の句作。
「松山につづいて、熊本から「子規へ送りたる句稿」この年は次のようになる。
七月八日 句稿十五 四十句
八月 句稿十六 三十句
九月二十五日 句稿十七 四十句
十月 句稿十八 十六句
十月 句稿十九 十五句
十一月 句稿二十 二十八句
十二月 句稿二十一 六十二句(『漱石全集』 一七巻)
句稿十七、四十句の中には、博多公園、箱崎八幡、香椎宮、天拝山、太宰府天神、観世音寺、都府楼、二日市温泉、梅林寺、船後屋温泉、都府楼瓦を達磨の前に置きて、というように新婚旅行のコースを、感動を子規に屈託なく報告しているようである。
子規はこの年三千余句を作って、芭蕉や蕪村や其角が一生の長い年月間に作ったよりも数倍の多き句を作っている。この年が最も多く句を作っている。その理由を寒川鼠骨は、
前年来の病は漸く膏肓に入り、歩行の自由を欠き、家に籠り勝で作句の機会が多く、しかも子規居士の俳文学は一世を風靡し、その反響意外に大きく、従つて作句熱も強く刺激されてゐたのと、今一つは子規庵に毎月俳句の運座会を催すこととなつたりして、これによる作句機会も増加して釆たりした為である。(『正岡子規の世界』)
漱石にとっても、子規に触発されたこともあり、松山から熊本へのこの年の俳句は、五百二十一首と年次的に一番多く作っている。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))
「・・・・・明治二九(一八九六)年は、近代俳句にとっての大きな転機となった。
高浜虚子は、「明治二十九年という年は居士によって唱道せられたいわゆる新俳句が非常の力を以て文壇の勢力となった年であった」(『子規居士と余』日月社、一九一五)と回想している。
また河東碧梧桐も「明治二十九年以後の子規は、文学上の社会人として多くの人の耳目に新たなるものがある」(『子規を語る』汎文社、一九三四)と、やはりこの年に俳句界と子規に同時に転機が訪れたと指摘している。
なぜ「明治二十九年」が転機になったのか。ほかでもない虚子と碧梧桐、二人の弟子が、「新俳句」の明確な方向性を打ち出す仕事をし、それらを子規が批評したからである。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
12月
川上眉山(27)、借金取りから逃れ三浦半島を放浪。紀行文「ふところ日記」。
12月
雑誌「心海」に日本で初めてニーチェの文献が掲載。
12月1日
初めて映画が一般公開
12月8日
エンゲル(75)、没。
12月10日
洋画家林武、誕生。
12月10日
アルフレッド・ノーベル(63)、没。
12月11日
高野房太郎(27)、ゴンパーズの手紙に返信。アドヴァタイザー社を退職し,労働運動をはじめる決意を固めたことを伝える。
12月14日
一葉の妹邦子が樋口家の相続戸主となる。
12月25日
第10議会、開会。前年に続き軍拡予算が提出、ほぼ原案どおり可決。自由党は野党に回るが、伊藤内閣との提携時に軍拡予算に賛成しており、大幅な予算削減を主張できず。
第10議会中、東北派領袖河野広中、自由党を脱党。
河野は伊藤に近く、伊東巳代治と結ぶ林ら土佐派と共に、伊藤内閣と自由党の提携の立役者。しかし、板垣入閣4ヶ月後、伊藤が辞職し、党内の信用を失墜。そのため第10議会でも党内の十分な支持を得られず、議長選挙にも落選。脱党の裏には、政府内薩派からの働きかけもある。後、河野は東北同盟会を組織し、大政党樹立を目指すが、大井同様、大勢力にはなり得ず政界主流から外れていく。
12月30日
フィリピン独立革命指導者ホセ・リサール、処刑。
リサールは、「ノリ・メ・タンへレ」(私に触れるな)などの小説で知られる医学博士で作家、言論活動を通じてスペイン当局の悪政の改革を目指す穏健派の第一人者。この年8月、性急に独立を求めるボニファシオの秘密結社カティプナンが1千人程でマニラ近郊で蜂起。当局は既に逮捕していたリサールをマニラ市ルネタ公園で公開の銃殺刑。独立戦争の火は中部ルソン各州に飛び火。
12月31日
フィリピン、カビテ州イムース町でカティプーナン指導者会議。ボニファシオとアギナルドの指導権争いが顕在化。
つづく
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