2024年3月5日火曜日

大杉栄とその時代年表(60) 1892(明治25)年1月~2月 南方熊楠、西インド諸島巡回からフロリダ州ジャクソンビルに戻る 伊藤博文、新党結成に動く 堀口大学・西条八十生まれる 子規、小説「月の都」脱稿 一葉(20)結核発現の最初の兆候 植木枝盛(35)没 足尾の鉱毒被害者示談工作進む 幸田露伴と根岸派の人々          

 

幸田露伴

大杉栄とその時代年表(59) 1891(明治24)年12月 漱石、『方丈記』英訳・解説 逍遥・鴎外の没理想論争 子規、小説「月の都」の執筆着手 子規、「俳句分類丙号」着手 広津和郎生まれる 田中正造、第2議会に「足尾銅山鉱毒の儀につき質問」 より続く

1892(明治25)年

1月

南方熊楠、西インド諸島巡回からフロリダ州ジャクソンビルに戻る。八百屋の中国人江聖聡に厄介になり、採集した植物を夏までかかって整理。8月、江が店を閉じ中国へ帰ることもあり、渡英のためニューヨークに行き、9月14日出発。アメリカ滞在は6年。

1月4日

横浜旧公道倶楽部、神奈川県内の民党大会開催。石阪昌孝ら前議員ら200人出席、候補者人選。私選投票による候補者決定の方針だったが、県下巡回したところ輿論の趨勢一定のため選定した候補者を発表。第1区(横浜)島田三郎(立憲改進党)、第2区(久良岐・橘樹・都筑郡)山田泰造(自由党)、第3区(西・南・北多摩郡)石阪昌孝・瀬戸岡為一郎(自由党)、第4区(三浦・鎌倉郡)山田東次(自由党)、第5区(津久井・高座・愛甲郡)中島信行(自由党)但し中島辞退の場合は山田嘉穀か菊池小兵衛、第6区(淘綾・大住・足柄下・足柄上郡)福井直吉(自由党)。     

1月7日

天皇、小田原の伊藤へ侍従長徳大寺実則を派遣、今後の見通しを訊ねる。伊藤は選挙後も野党優位は変わらず、天皇が望む陸奥農商務相更迭にも難色を示す。

13日、今度は侍従職幹事岩倉具定(具視次男)を派遣。伊藤は、政府・民党の衝突を繰返すよりは、穏健な国民を代表する新党を結成する意向を示す。伊藤奉答の衝撃。超然主義(特定政党を特別扱いしない)に反する。伊藤新党の政権参加を認めれば、民党の政権参加にも道を開く。この件で伊藤と他の元勲が対立すれば、藩閥の危機を迎える。

16日、天皇は土方久元宮内大臣を松方首相に派遣、善後策検討指示。

1月7日

オスマン帝国統治下エジプト副王メフメト・テウフィク(40)、没。

1月8日

一葉(20)の年始回り。西村釧之助(小石川区表町)~萩の舎~田中もの子宅(牛込区新小川町)~桃水宅(平河町)。

桃水は留守であったが、戸が開けてあったので家に入って台所の板の間に持参の土産物を置いて帰る。

「車にのりて帰る道すがらも、思へばあやしき事をもなしたるかな、我身むかしはかゝる先ばしりたる心にもあらざりしを、年たけると共におもての皮厚く成て、はしたなくもなりつることよ」(「につ記」明25・1・8)と、

つい夢中になって桃水をさがし求めたずうずうしさを反省する。

この夜、桃水に手紙を書くが、何度書いても気にいらず、やっと書き終えて読み返すと、「末におそれの種やまかんと、おそろしく」なって、結局出すのをやめてしまう。隠しても隠しきれない恋心が、手紙の文面に表われてしまう。

1月8日

堀口大学、誕生

1月14日

この月、子規、小説「月の都」を脱稿し、この日(14日)、漱石を訪ね「月の都」の話をして泊まる。

1月15日

石阪昌孝、神奈川県第3区有志の開いた原町田宗保院での政談大演説会に出席。昌孝、「国会解散始末」の演題で報告。閉会後吉田楼で懇親会。神奈川県警察は第3区に巡査30名余を派出、平服の巡査を公然と遊説させ、遊説者を護衛するとして制服巡査を同伴させ、吏党候補の選挙支援に奔走。時には買収や威嚇、恐喝、無頼の徒を使って強迫。自由党運動家を村に閉じこめたり、警察分署に留置するなど、選挙運動の直接妨害も行う。選挙人獲得のため運動人による買収、仕込み杖をもった自由派と吉野派の壮士が横行、時には両派が斬り合う場面も。

1月15日

子規、元良勇次郎の精神物理学の講義に出席。ノートも金もないと子規は好意を断るが、漱石は買って与える。

1月15日

西条八十、誕生

1月16日

明治美術会、浅井忠らを教授として迎え洋風美術指導のため教場を開く。

1月16日

一葉(20)、田中みの子(37歳、萩の舎の「平民三人組」、建設業者の未亡人)の家でかるた会。朝3時までうち興じ翌17日朝帰り。母からひどく叱られる。直後より、咳がひどく、熟も高く、4、5日の臥床。結核発現の最初の兆候

1月17日

慶應義塾幼稚舎の前身・和田塾を開いた和田義郎(53)、没。

1月19日

(露暦1/7)チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」、ハンブルク初演。指揮グスタフ・マーラー

1月21日

伊藤博文、上京。22日、参内。新党結成申し出る。天皇は反対。25日、伊藤は、黒田清隆・榎本武揚・品川弥二郎にも新党構想披瀝。26日、井上馨、書簡で改めて計画断念を求める。

1月23日

植木枝盛(35)、没。家永三郎「植木枝盛研究」(1960)は毒殺説。

1月28日

予戒令、勅令により制定公布。第2回総選挙を控え、民党圧迫のため壮士の行動を拘束する目的。「一定の生業を有せず平常粗暴の言論を事とする者」に「適法の生業」従事を命じたり、他人の集会を妨害しようとするだけで集会出入りを制限するなどの権限を地方長官に与える。市民的自由制限法。1914年1月20日廃止。

1月31日

森鴎外(30)駒込千駄木町二十一番地に移り、父母及ぴ祖母と共に住む。

8月、家を増築し観潮楼と号する。

1月31日

秋葉山の決闘。愛知郡上郷村秋葉山中で北熊一家近藤実左衛門(博徒大刈込で懲役5年判決、明治22年恩赦出獄)と瀬戸一家の乱闘。瀬戸側に即死1・重傷者数名。実左衛門の息子義九郎は弁護人に衆議院議長星亨や名古屋事件弁護士(自由党系)を動員。実左衛門を無罪とする。義九郎の名古屋事件への弔い合戦(義九郎は事件当時の自由党員であるが、最後の段階で大島渚とは決裂し事件連座を免れる)。

1月31日

ロマン・ロラン(26)、コレジユ・ド・フランス言語学教授ミシェル・プレアル娘クロチルド・フレアルと結婚。 博士論文の資料を集めるため妻とともにローマに旅行、翌年春まで滞在。


2月

栃木県知事の示談工作本格化。知事が委員長の仲裁委員会(県会議員19名)。被害地町村の大字に5名以下の被害者惣代設ける。8月~翌年、示談契約、栃木・群馬2県43ヶ町村で結ばれる。

2月

子規、露伴を訪問。「月の都」を見てもらうが評価低し。

「俳諧年表」「日本人物過去帳」「俳諧系統」等を作成。

陸羯南を根岸の自邸に訪い、大学を中退し、俳句作りを生涯の仕事とする意志を伝える。

上根岸(羯南宅西隣)へ転居。

2月

この頃の幸田露伴と根岸派との交流。

塩谷賛『露伴と遊び』の「高橋太華」の章にある太華の日記の塩谷のダイジェスト


「(*2月)二十六日には露伴と上野へ行って、鳥で飲んで一升あける。二十七日に二人で得知を誘って亀井戸の梅を見に行き、橋本で飲んで浅草公園へ行き、得知と別れてから(*岡倉)天心を訪問して飲んだ。その晩は露伴が太華の家に泊り、翌朝露伴が帰ると只好が来て、いっしょに飲んでから二人で思軒を訪問し、つぎに得知を訪問した。」


「(*3月)二日に川崎千虎を訪問し、つぎに岡倉天心を訪問する。天心は漆にかぶれてひどい顔つきになっていた。図書館へ行くと露伴も来ていた。露伴はその翌日太華の家へ来たが、太華は得知を訪問していたので不在であった。四日の朝、太華が露伴を訪問し、ひるめしには中川へ行って牛肉を食った。二日おいて六日には露伴が来て二人で鳥で飲み、七日にも露伴が来て二人で浅草の朝倉へ行き、買いたい書もないので金田で飯を食い、足をのばして寒月を訪問する。十一日になって露伴と忍川でひるめしを食い、得知を訪問する。」

■幸田露伴と根岸派の人々(中心メンバーは饗庭篁村、森田思軒、高橋太華、幸堂得知ら)


「根岸派と今日では略(ほ)ぼきまつた称呼になつてゐるが、もとは根津党と書いたものゝ方が多かつた。明治二十三、四年頃、根岸から谷中にかけて住まつてゐた約十人の文士群を総称していふのであるが、それは、別にむづかしい文学上の主義主張からそれらにかたまつたといふのではない。たゞ何となく住みよいといふ地理的選択から、自然にさういふ結果になつたものであつた。強ひていへば、当時は都心を離れてゐたかういふ土地を選ばしめた彼等の気持ちに何やら傲世逸俗といつたやうな共通なものがあつたといへぬことはない。また文芸的趣味にも多少の共通性はあつたらう。だが、彼等は、その共通性を利用して文学上同一歩調をとるとか、同一運動を起すとか、他派に当るとかいふ野心は少しもなかった。さういふ淡々たる気持ちの彼等を、硯友社の全盛に反抗した文学団体だなぞといふ見方をするのは、途方もない間違つたものであつた。さういふ彼等を一党一派と団結させたのは、文学上の主張でも主義でもない、むしろ酒であった。詩酒徴逐の遊楽であった。彼等は文壇の覇権を心配する大友の黒主の寄合ひではなしに、世俗を白眼視する清談の酒徒のまどひであったのである。」(柳田泉『幸田露伴』「根岸派の人々」)

2月

与謝野鉄幹(19)、積善会より「霊美玉廼舎主人」の号で「みなし児」刊行。

3月、徳山女学校を退職。浅田信子との関係が原因か。9月頃上京。

2月

坪内逍遙「没理想の語義を弁ず」(「早稲田文学」)

2月

北村透谷「厭世詩歌と女性」(「女学雑誌」)

2月

アンリ・マチス(23)、エコール・デ・ボザール入学試験受験、失敗。ゴヤの「若い女」「年老いた女たち」に感銘。前年、父の反対を押し切り、法律の職業を捨て芸術家として進む決意。パリに移り、アカデミー・ジュリアンに入学。G.フェリエとA.ブーグロ-のもとで学び、エコール・デ・ボザールの入学試験の準備。


つづく

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