1902(明治35)年
9月18日~19日
〈井上泰至『ミネルヴァ評伝選正岡子規』より〉
「絶筆三句の証言
九月三日を最後に、子規は絵筆をとることも、かなわなくなった。足の腫れと共に製い来る激痛は、先に紹介した通りである。いつまで書き続けらるかもわからず始めた『病牀六尺』も、八月二十日で百回を迎えて喜んでいたが、それからひと月に満たない九月十七日で途切れた。ここからは、碧梧桐の「君が絶筆」と虚子の「君が終焉の記」が詳しい。共に子規が亡くなって二ケ月後に刊行された『子規言行録』に収められている。
絶筆二句の碧梧桐の描写は細大漏らさぬものである。十八日午前十時、いよいよ容体が悪いと聞いて碧梧桐がまず駆けつける。子規の言明で虚子も電話で呼び出されるが、まだ来ない。妹律は、墨をすって、仰向けで絵を書くために使ってきた画板を用意し、細筆に充分墨を含ませて子規に渡すと、子規が左手で画板を持ち、上は律が持って次の三句を書いた。
をととひのへちまの水も取らざりき
糸瓜咲て痰のつまりし佛(ほとけ)かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
さらに四、五分すると、三度画板を律に持たせたので、碧梧桐もどきどきしながら、子規に筆を渡す。いずれも子規は無言である。
右に「をととひの」の句を書き始めるが、最初「をふらひの」と見えたので、「ふ」の字の右に、「と」を書き加えた。もはや筆を操る力もそう残ってはいなかったのである。筆はやや右に流れて、今度も投げ捨てられ、寝床に少し墨が付いた。文字通り最後の力を振り絞った絶筆である。
愚なる糸瓜に託して
死にゆく自己を「佛」と突き放す最初の句は、鄙(ひな)びてはいるが明るい糸瓜の花の餞(はなむけ)によって、自ら死化粧する感も漂う。ただし、虚子の証言によれば、九月十四日朝、十本ほどの糸瓜が皆痩せて棚の上まで届かず、花は二、三輪であった、という(「九月十四日の朝」)。
喉に効くとされた九月十六日(旧暦では仲秋の名月の日、八月十五日に当たる)の糸瓜の水が取れるまでには至らなかった。二句目も、自身の病の苦しみを「痰一斗」と誇大に可視化しつつ、そこに剽軽な形状の「糸瓜」をさかせる点、笑いがある。三句目はこれを受けて、糸瓜の水は「をととひの」旧暦十五日に薬効があるとされるが、それさえも取れず、旧暦の八月十七日(新暦九月十八日)を迎えてこの句を作った、ということになる。
「も」は「さえも」の意味にとってこそ、生への執着を言い表すことになるか。そうとることで、「取らざりき」の言い切りからは、対照的な「これで終わりだ」という強い主観も響いてくる。
「糸瓜」へのこだわりは、「愚」を連想させるその実の形状と、花の鄙びた美しきから考えて、子規の境地を考慮することも可能だろう。漱石が子規の東菊の絵を見て、子規晩年の境地が「拙」であったと見抜いたことと符牒が合う。
さらに言えば、この三句で大事なことは、子規自身が言葉の「おくりびと」となって、俳句らしい客観と滑稽を以て示してくれた、死そのものへの確かな、しかし優しい「まなざし」なのだ、と思えてならない。
子規は喀血の当初から、自分の病を客観的に、時には笑いのニュアンスさえ込めて描いてきた。それには子規一流の強がりもあるだろう。しかし、視野を広く持てば、こうも反問することができる。
現代に深刻な病を笑ってみせることはまずない。むしろ、笑いにしてはいけない雰囲気が強い。ところが、子規の時代、いや子規は、この人生の一大事を、なぜかくも明るく笑ってみせることができたのだろうか。
近代は、人間を神に近い存在まで引き上げて、理性を求め、人権を確立した。したがって、その命は唯一無二のかけがえのないものとなる。しかし、子規の「腹」の中にあった、江戸の感覚はそうではない。
彼らにとって、人は鳥や虫と変わりない生き物に過ぎないから、そこに多少のふぞろいがあるのは当然で、お互いを理想的な、あるいは守られるべき、かけがえのないものなどと見なす感覚はなかった。世界に一つだけのかけがえのない自分などなく、「お互い様」の感覚で卑近な自分たちを笑うことも許されたのである。いやその「笑い」こそが、生命の賛歌にも転じ、共に生きる希望の根源にもなったのであろう。
月明の臨終
遅れてやってきた虚子の証言によれば、子規は午後五時目覚めるも、苦しむので最後のモルヒネを飲ませてもらう。やがて宮本医師が注射を打って昏睡する。午後八時に再び目覚め水を飲む。「だれだれが来て居でるのぞな」と聞いて、律が「寒川(鼠骨-引用者注)さんに清(虚子 - 引用者注)さんにお静さん」と答えた後、また眠りに落ちた。
子規の昏睡は続き、母八重と律は蚊帳を吊った。子規は「うーんうーん」と唸るばかりである。明けて十九日未明、律が眼を覚まして八重を呼び起こし、子規の額に手を当てて、「のぽさん、のぽさん」と連呼するが、既に子規の手は冷たくなっていた。午前一時のことである。
碧梧桐は、四、五日は持つという医師の言葉を信じて一旦帰っていた。その碧梧桐に知らせに行くべく、外に出て根岸の空を見上げた虚子の眼には、旧暦で言えば十月仲秋十七日の夜の月が、煌々と空を照らしていた。満月から二日遅れではあるが、「一点の翳(かげり)も無く恐ろしき許(ばか)りに明か」だった、という。
子規逝くや十七日の月明に 虚子」
「九月十八日の夜は、月が明るかった。宿直の番に当った虚子が、寝つかれぬままに庭に出てみると、糸瓜の棚の上に明月がかかっていた。彼は名状しかたい感情にとりつかれて、しばらく月を仰いでいた。座敷に戻って病床をうかがうと、子規はよく眠っていた。ちょうど深夜の十二時ごろであった。子規の母八重が、
「さあ清(きよ)さんお休み下さい。叉代ってもらいますから」
といったので虚子は床にはいったが、うとうとしたかしないうちに、「清さん清さん」といううろたえた声で眼を覚まさせられた。彼がいそいて行ってみると、子規はすでに絶命していた。母が伽をしなからある婦人と枕頭で話しこんでいるうちに、子規はいつの間にか静かに息をひきとっていたのであった。妹の律が「兄さん兄さん」と泣きながら呼びかけていた。虚子は近所にいる河東碧梧桐、寒川鼠骨の二人に知らせるべく子規庵を出た。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
「其時であつた。さつきよりももつと晴れ渡った旧暦十七夜の月が大空の真中に在つた。丁度一時から二時頃の間であつた。当時の加質邸の黒板塀と向ひの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町が其月のために昼のやうに明るく照らされてゐた。余の真黒な影法師は大地の上に在つた。黒板塀に当つてゐる月の光は余り明かで何物かゞ其処に流れて行くやうな心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつゝあるのではないかといふやうな心持がした。
子規逝くや十七日の月明に
さういふ語呂が口のうちに呟かれた。余は居士の霊を見上るやうな心持で月明の空を見上げた」(『子規居士と余』十四)
"
"「虚子が子規庵に戻ると、月光におよばぬランプの黄色い光に照らされた三人の女性が、死者のそばに座していた。
八重は虚子を見て、鷹見夫人にこういった。
「のぼは清さんが一番好きであった。清さんには一番お世話になった」
それから八重は泣き伏した。隣室の四畳半から、気丈な律の泣き声が聞こえた。彼女はひっそりとそちらに移っていたのである。
やがて羯南がきた。碧梧桐、鼠骨がきた。羯南夫人がきた。」(関川夏央、前掲書)"
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