1902(明治35)年
9月19日
「若い三人(*虚子、碧梧桐、鼠骨)と羯南とで葬式の相談をし、土葬、東京近郊の寺、質素に、ということで一致した。新聞広告は出さない。松山の親戚はわざわざ上京の要なし。諸方連絡のうえ、「ホトトギス」に死亡通知を載せる。それらも四人で決めた。
次第に人がつどった。一度帰宅した羯南夫人が長女まきを連れてきた。まきは子規と親しかった。碧梧桐夫人繁栄と静がきた。
その頃夜が明けた。虚子は「ホトトギス」に死亡通知を急遽挿入するべく去り、鼠骨は各所に電報を打つため子規庵を出た。
八重と律が子規の姿を直した。蒲団からはみ出していた脚を戻し、左に傾いた体を正しく仰臥させようと死者の肩を起こした八重が、「サア、もう一遍痛いというてお見」と語りかけた。その言葉に碧梧桐は粛然とした。
(略)
朝になり、人々がつどった。鳴雪、左千夫、森田義郎、紅緑、飄亭、四方太、「日本」の古島一雄らである。
碧梧桐と左千夫が滝野川村田端の大電寺を見に行ったのは、墓所を決めるためであった。
根岸からさして遠からぬ大竜寺は律宗の寺で、そこは東京郊外なので土葬が許された。帰ってきたふたりがそのむね説明すると、八重は正岡の家は曹洞宗だから、とためらった。
鳴雪が、子規はそういうことを気にせぬ宗教思想の持主であったと説得して、八重を肯わせた。長々しい戒名を嫌った子規の心情を忖度して、ただ「子規居士」とすることにみなで決めた。
今度は、鳴雪と碧梧桐が大竜寺に赴いた。埋葬を頼む墓所を選定するのである。午後四時頃から沛然たる雨となり、雷鳴がとどろいた。その豪雨の中をふたりが帰った頃、茨城県から長塚節が出京してきた。
(略)
通夜は二日に分けて行うこととした。この日九月十九日の当番は、左千夫、四方太、義郎、秀真、蕨真、紅緑であった。碧梧桐、虚子、鼠骨らは帰宅した。夜更けて羯南夫妻と娘のまきがきた。・・・・・」(関川夏央、前掲書)
9月20日
大阪商船(株)、大阪-韓国元山線開設。
9月20日
金井延『社会経済学』発表。
9月20日
「翌九月二十日の午前十時頃、虚子、碧梧桐、鼠骨、鳴雪が子規庵にきた。彼らは葬式の段取りの相談をし、役割分担を決めた。秀真が、柩とともに埋める鋼製の銘板をつくることになった。
二十日の通夜の当番は虚子ら四人と飄亭、麓であったが、俳人、歌人たちのほか「日本」の社員ら二十余名が列席、「談笑平生の如くあるべし」という子規の遺言どおりとなった。「ホトトギス」第五巻十一号の見本があがったのはこの日夕刻で、ページを繰ってみると、子規最後の原稿「九月十四日の朝」の文末半ページに、虚子が挿入した「通知」が載っていた。
「子規子逝く 九月十九日午前一時遠逝せり」」(関川夏央、前掲書)
「二十日、子規の要望「談笑平生の如くあるべし」の通りの通夜となる。
「日本」新聞の同僚古島一雄は、「骨盤は減ってほとんどなくなっている。脊髄はグチヤグチヤに壊れて居る、ソシテ片っ方の肺が無くなり片っ方は七分通り腐っている。八年間も持ったということは実に不思議だ実に豪傑だね」(別巻②佐藤紅緑「子規翁終焉後記」)と言った。」(森まゆみ『子規の音』)
9月21日
子規、北豊島郡滝野川村字田端の大龍寺に埋葬される。会葬者150余名。戒名「子規居士」。
穴を掘って棺を土に埋め、香取秀真作の銅板を埋めた。
「子規 正岡常規之墓 慶応三年九月十七日生 明治三十五年九月十九日没 行年三十六」
漱石代理として鏡子の依頼で土屋忠治(のち裁判官、漱石が五高で教えた生徒、当時鏡子の実家に寄宿)が参列。寺田寅彦も参列。少し遅れて到着した秋山真之は人ごみの後ろから一礼して去った。
「その日、虚子は気が動転していて子規の死を、ロンドンの漱石にどう伝えるべきかばかりに気を取られていて、留守宅の夫人に知らせるのを失念してしまった。・・・・・鏡子は新聞で知って五高時代の教え子の土屋忠治に代理で葬式に行ってもらった。最初は鏡子が行くつもりにしていたが、土屋が《子供のあるものはそんなところに行かぬがいい。私が代理で何もかもやってあげよう》(『漱石の思い出』)といって、お悔みやら何やらすべて取り仕切ってくれたそうだ。・・・・・しかし、これは鏡子の思い違いで実際に葬式に参列したのは、寺田寅彦の日記にあるように、同じ書生仲間の湯浅廉孫だった。
九月二十一日(日)晴 朝新聞を見たれば今朝九時子規子の葬式ある由故、不取敢(とりあえず)行く。御院殿の踏切を越ゆる時、行列に出会い其儘従い行く 夏目先生代理として湯浅君も会葬せり。田端大電寺にて焼香。立上る香の煙。読経の声そゞろに心を動かして柩の前に君が面影を思ひ浮べぬ。(『寺田寅彦全集』)」(『子規断章』)
〈子規と秋山(井上泰至『ミネルヴァ評伝選正岡子規』)より〉
「秋山の告別
子規が亡くなった時、旧友秋山真之は横須賀の海軍大学校にいた。この年の正月には日英同盟が締結され、一年半後に起こる日露戦争を意識しながら、艦隊参謀の養成に務めていた。アメリカ留学で海軍戦略の世界的権威マハンに学んだ成果を生かしながら、兵学研究に余念のない日々だった。
子規は、五年前の明治三十年六月、アメリカ留学の前に、送別の句を送っている。死の病に臥す子規と、洋行して日本の海軍戦術の屋台骨を背負おうとする秋山には、明暗がはっきりある。子規の送別の句は、その「暗」を隠すことがなかった。
君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く 子規
夏の子規の病床は、蚊帳の中に筆も墨も尿瓶も同居する、押し込められたものだった。蚊帳は、しばしば江戸時代の幽霊画に登場する。その蚊帳を使って寝たきりの自分を、半ば幽霊に等しいと自ら描いてみせる子規には、俳人の業を感じないわけにいかないが、洋行をしたくてたまらなかった子規の涙は嘘ではない。
それでも、子規一流の意気軒高なところは失わず、虚子は、
さて「秋山は早晩何かやるわい」という事は子規君の深く信じて居られた事で、大きく言えば天下の英雄は吾子と余のみ、といったような心地もほの見えて居った。
(「正岡子規と秋山参謀」「ホトトギス」明治三十八年七月号)
と証言していて、この古い友人の活躍を信じ、自分も負けまいとする気分でいた、という。秋山も帰朝してから子規を訪ねている。
子規の葬儀は、予想外に人が集まった。死の二ケ月後に刊行された『子規言行録』では、出版の経緯に触れ、版元の吉川半七(吉川弘文館の初代)が、子規は立志伝中の人であると同僚の古島一雄に言って、この追悼文集の出版を勧めた、という(『子規言行録』「緒言」)。新聞『日本』に連載された子規の闘病日誌が、子規を有名にしていたのである。
棺が家を出て間もなく、「袴を裾短に穿いて大きなステッキを握」った秋山は、「スタスタ徒歩して来られて路傍に立ちどまって棺に一礼」した。それから棺は田端の大龍寺に行ってしまったが、虚子が後で聞いたところでは、秋山は正岡の家へ行って焼香をして帰った、という(「正岡子規と秋山参謀」)。死が身近にある軍人らしい、淡泊な別れである。
秋山はかつて子規と競った文章の才で、日本海海戦当日、「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と実に簡明な表現で、これから臨む状況を描いてみせた。秋山は、自身まとめた『海軍戦務』の中で、最少の言葉で的確な意思伝達をすべきという項目をわざわざ挙げているはとで、こういう表現への志向は、子規が俳句とは簡にして強い表現にあるのだ、としたのと不思議に符合する。」
つづく
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