2025年12月30日火曜日

大杉栄とその時代年表(724) 1907(明治40)年4月5日~11日 有島武郎(30)神戸着、帰国。神戸港には父の有島武が来ていた。 武は、この年、数え年66歳、母幸子は54歳であった。武郎は長男で、その下に愛子、壬生馬、志摩子、隆三、英夫、行郎の7人の子供があった。

 

有島三兄弟(武郎、壬生馬、里見弴(英夫))

大杉栄とその時代年表(723) 1907(明治40)年4月1日~4日 漱石入社の辞 「大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だと云って驚くなら尤である。かく申す本人すらその点に就ては驚いて居る。」 より続く

1907(明治40)年

4月5日

東京市電気事業開業。

4月5日

大杉栄「ザーメンホフ博士とエスペラント(一)ザーメンホフ博士よりポロヴコ氏に与へたる私書の一部」(「日本エスペラント」2巻1号)

4月6日

この日の『平民新聞』紙上で、堺、幸徳の連名で「平民社の財政甚だ裕(ゆたか)ならず大いに節約の必要」があるため、両人は社の実務を離れ給与を辞し、竹内兼七が代って経営に任ずる旨を報告。

「元来本社の営業は、家屋と器機と活字とを竹内より借り、三千余円の出資金を流通資本としたのでありますが、廃刊の今日に於ては既に二千余円の負債を生じて居ります」と「謹告」。

4月6日

午前11時、控訴院第二部で大杉栄「神兵諸君に与ふ」発禁事件判決。新聞紙条例第3条(秩序壊乱)違反で軽禁錮1ヵ月となる。地裁判決と同じ。判決を受け入れるが、4月10日、大審院に上告される。

4月7日

大杉栄、夕方、平民社楼上(京橋区新富町6の7)で開かれた「山口孤剣君大杉栄君入獄送別会」に出席。親子丼がでる。参加者は、熊谷千代三郎、ウノーダブルコ、山崎今朝次郎、岡千代彦ら。

4月8日

幸徳秋水(35)、「鎌倉より」(「日刊平民新聞」~11日迄連載)。

4月8日

午前9時、石川三四郎が「青年に訴ふ」に関して、地方検事局の牧野から呼び出され、出頭する。

4月8日

英仏協定によりシャムの独立承認。英仏勢力範囲を確立(メナム川西部は英、東部は仏の勢力圏)。

4月9日

石の随筆「京に着ける夕」(「大阪朝日」9~11日)。大阪朝日創刊9千号記念号。漱石招聘を言い出したのは大阪朝日の鳥居素川だが、大阪朝日社主村山の大阪朝日入社の要請にも拘らず、漱石は東京朝日入社を選ぶ。京都旅行で素川と会った漱石は、素川の苦境を見て、大阪朝日だけに寄稿する。

4月9日

幌内炭鉱暴動

4月9日

東京神田区在郷軍人団創立会。初の在郷軍人団。800余人参集。

4月9日

第16師団の京都設置について、市外深草村・大宮村の誘致競争開始。深草に決定、1908年11月16日に同師団移駐。

4月9日

神戸海上運送火災保険株式会社創立。

4月9日

夜、堺利彦宅で山口(孤剣)君大杉(栄)君(入獄)送別会」を開く。大杉栄、堀保子と出席。

4月10日、検事長倉富勇三郎が上告し、入獄延期となる。

4月10日

中国、川漢鉄道を民営とする。

4月10日

日露樺太境界画定書調印。9月10日公布。

4月10日

東京市、『東京案内』(上・下)編纂刊行。

4月10日

京都府紀伊郡深草村小作人60人、師団新設用地買収費に関し、坪当たり20銭の補償を要求、郡役所に屯集。7月26日再び屯集。

4月10日

官立医学専門学校規定制定。

4月10日

(漱石)

「四月十日(水)、雨後晴。取材のため奈良に行く途中の高浜虚子から使い来て、訪ねてよいかという。「まだ居ります。すぐいらっしゃい。但し男所體だから御馳走は出来ませぬ。御馳走御持参は御随意。」と返事をもたせる。高浜虚子、狩野亨吉の家に来る。書生、昼食に精進料理の準備をしたが、高浜虚子に誘われて、人力車で山端の平八茶屋に行き、鮒の刺身や諸子魚(もろこ)の焼いたもの鯉の羹・鰻など出る。昼食を共にする。他に客いない。萬屋(三条小橋西。高浜虚子が宿泊する)に寄り、高浜虚子と共に入浴する。湯殿には大きい鏡があり、漱石の卓あり、四壁には硝子がはめられ、穏やかな春の光さし込む。浴槽は新しい白木である。道後温泉の思い出など取り止めない話を長時間する。(高浜虚子)夕食後、花見小路で都踊りを見て、萬屋には戻らず、一力でも踊りを見て、千賀菊と玉喜久(共に十三歳)と四人で雑魚寝する。(保津川・比叡山などの遊覧は『虞美人草』の素材になる)

四月十一日(木)、赤口。午前六時頃、高浜虚子と共に、一力を出る。千賀菊・玉喜久に見送られる。萬屋に戻る。午後八時二十分、七条(京都)停車場発の列車で出発する。」(荒正人、前掲書)

4月10日

仏の医学者、赤痢治療用の新血清の発見を発表。

4月11日

有島武郎(30)、神戸着、帰国。数え年26歳の8月から30歳の4月まで3年半

神戸港には父の有島武が来ていた。

この当時、武は東京の麹町下六番町に長屋門のある大きな邸を構えていた。若い時から大蔵省にあって、横浜税関長、国債局長を勤めたが、上司と政治上の意見が合わず、明治26年に退官する。そのあと一家は窮乏したが、そのうち松方正義に推薦されて十五銀行の重役となり、日本郵船会社や日本鉄道会社の重役も兼ねた。その頃から経済状態が立ち起り、明治28年、麹町区下六番町十番地の角に500坪ほどの旗本屋敷を買い、やがて隣接地700坪を買って、そこに立派な庭園を作った。

武郎の父武は、この年、数え年66歳、母幸子は54歳であった。武郎は長男で、その下に愛子、壬生馬、志摩子、隆三、英夫、行郎の7人の子供があった。

武は薩摩藩の川内の出で、大蔵省官吏となり、明治11年には海外に派遣された。彼ははじめ園田男爵家の娘を、次に寺島伯爵家の娘を妻としたが、二度とも離別に終った。そのあとで彼が結婚した山内幸子は、南部藩の江戸詰めの武士の娘であったが、維新後零落して、母静子、弟英郎と苦しい生活を経験していたので、しっかりした女であり、賢夫人と言われた。武と幸子の結婚の媒酌をした太田時敏も南部藩士で新渡戸稲造の遠縁の者であった。

幸子の弟で、山内家の嗣子であった英郎は、明治21年、大阪府収税部の検税課長をしていたが、数え23歳の時、突然脳溢血で死んだ。英郎の死んだ2日後の7月14日、幸子は4人目の男の子を産んで、英夫と名づけられた。英夫は出生と同時に山内家を襲い、そのまま有島家で育てられた。山内家は英郎の母静子が残っているだけであり、静子も間もなく有島家に同居するようになった。静子は宗教心の深い、女丈夫というべき女で、武郎や愛子を一時その麹町区下二番町の家に預って養育し、糖神的な感化を与えたが、英夫もまた同居してからこの祖母の影響を強く受けた。静子は英夫が12歳になった明治32年に死んだ。

有島武は、国粋主義と欧化主義との混った教養を持っていた。横浜税関長の頃は、欧化思想が最も強くなっていた。彼は武郎と愛子とを外人宅に預けて英語を学はせ、妻幸子を教会にやり、またダンスを習わせ、語学を学はせた。横浜税関の新築祝いには、大臣や諸外国の大公使が参列したが、そのとき幸子は洋装して踊った。その頃の横浜は東京よりもはるかに洋風な町で、毎晩のように舞踏会が開かれていた。

しかしその後、武は国粋主義に戻り、子供に厳しい武士的教育をはじめた。武は偏執的なほど物事に熱中する性格で、直観力が強く、独創的な考え方をする人間であった。何かを考え出すと2日も3日もそれに集中して、人と話もしなくなり、時にはそういう状態が続くうちに失神することがあった。

しかし武にはユーモラスな面もあって、自分の言葉が国訛りで、有島をアイシマと発音したことから、長女を愛子と名づけ、次女を志摩子と名づけた。

幸子は才女で、感情の強い頭のよい女で、和歌や絵を習い、会話は率直で人を引きつける魅力があった。時には宣伝的になるほど一種の政治的才能を持っていた。怒ったり泣いたり、ヒステリーを起したりもしたが、それが過ぎると自己批判をし、実際的に事を処理して誤ることがなかった。幸子の友人には、新渡戸稲造の実姉の河野象子があり、中沢弘光の母信子があり、また阿部華厳の母優子があった。

山内英夫は四男であったが、生れてからあと5年あまり下の子がなかったので末っ子として母の懐を独占し、兄や姉たちにいつもはやし立てられた。彼の名前は、死んだ叔父で山内家当主英郎を生かしたものであった。彼が数え8歳のとき、父は日本鉄道会社に入ったので、一家は東京の赤坂氷川町に移り、英夫は赤坂の仲ノ町小学校に入った。同級生に辰野隆(辰野金吾の息子)がいた。その小学校には2学期ほどいたばかりで、四谷見附そばの学習院の初等科2年に転入した。クラスには皇族が5人いた。皇族は外の生徒と違って海軍士官のような金モールの制服を着て、課業中も家従が教室についていた。そして一番から五番までは常に皇族が占める習いになっていた。この学校は、初等科が6年、中等科が6年で、一般の小、中学校より1年だけ修業年限が長かった。一般に平民の子は入れないのだか、兄武郎も壬生馬もここを出たので、彼は学校に早く慣れ、3、4年生の頃には悪戯っ子の一人になっていた。彼の相棒は久邇宮稔彦王で、よく二人で居残りを食った。

中等科には行軍があって、二三泊の野外演習に生徒たちは鉄砲をかついで出かけた。あるとき、四級か五級上にいる志賀直哉という生徒が、報道部という腕章を巻き、鉄砲を持たずに自転車で駆けているのを見て、英夫はうらやましいと思った。英夫は作文、図画、英語などは好んだが、歴史と数学は嫌いで、かつかつ及第するような点をとり、席次はびりから数える方が早かった。不得手の学課にカンニングをやり、時々現場を押さえられた。

彼は巌谷小波のお伽噺、森田思軒訳の「十五少年の漂流」などに熱中し、また村上浪六、村井弦斎、黒岩涙香の小説を読んだ。数え13歳で中等科に進む頃、彼は長兄武郎や次兄壬生馬の影響を受けて、もっと高級な文芸作品に親しんだ。この年彼は徳富蘆花「思出の記」を一夏かかって読んだ。その夏母の郷里の盛岡へ連れられて行ったが、そこに11,12歳の少女がいた。その少女に彼は、「思出の記」の主人公慎太郎の敏子に対するような恋心を覚えた。彼は尾崎紅葉の「金色夜叉」を兄の書棚から取り出して読み、また泉鏡花の作品は特に好きで、中等科時代ずっと読みつづけた。壬生馬は英夫を愛して、どこへでも連れて歩いた。それで壬生馬と仲のいい志賀直哉ともよく一緒になった。"

壬生馬は英夫の六つ年上、志賀直哉は五つ年上であった。しょっちゅうこの二人について歩くうちに、英夫は文学のみでなく、音楽会、芝居、寄席などへ行くことを覚えた。志賀直哉は落語の馬楽(ばらく)が好きで、明治39年、「吾輩は猫である」が出ると、それをわざおぎ浅草の馬楽の自宅まで持って行ってやった。英夫は志賀と親しかっだが内村鑑三のところへは行かなかった。それは武郎が札幌農学校でキリスト教に入ったのを両親が怒っていたせいもあった。英夫は特に落語に凝って、円喬、円右、小さん、小せんなどの噺に陶酔した。

彼は中等科の時代、壬生馬にすすめられて、英訳で「クオレ」を読んだが、明治39年数え19歳で高等科に進むと、トルストイ「復活」を英訳で読んだ。トルストイは長兄の武郎にすすめられたからであった。また彼はゴルキーの「チェルカッシュ」を丸善で取りよせて読み、それに熱中した。

明治40年4月、武郎が帰国したき、山内英夫は数え20歳になっていて、ゴルキーに熱中している頃であった。彼は前年から学習院の「輔仁会雑誌」編輯委員になり、全く文学青年になっていた。


つづく



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