2026年4月14日火曜日

大杉栄とその時代年表(805) 1908(明治41)年10月1日~3日 「1908年10月、私はウィーンで、広範な労働者層を対象としたロシア語新聞『プラウダ』を発行しはじめた。」 「『プラウダ』における私の主要な協力者は、後にソヴィエトの著名な外交官となるA・A・ヨッフェだった。私たちの親交はウィーン時代から始まった。ヨッフェは、高い思想性を持ちながら、個人的には非常に温和で、大義への揺るぎない献身を有した人物だった。彼は『プラウダ』にその持てる力と手段を注いでくれた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

「プラウダ」を読むトロツキー

1908(明治41)年

10月

「アララギ」創刊。根岸派。伊藤左千夫・石原純・斎藤茂吉・古泉千樫。

9月、伊藤左千夫と蕨真一郞が呼び掛けた「正岡子規七周忌歌会」の席で雑誌発行が決められ、翌10月、千葉で「阿羅々木」創刊。翌年1月第2号、4月第2号を発行後、伊藤左千夫の東京移転により、1909年9月より「アララギ」と改題、月刊となる。その後、島木赤彦らの「比牟呂」を合併)。翌11月終刊の「明星」に代わって詩壇を席巻。あらゆる歌人を統合してゆく。

10月

国木田独歩「欺かざるの記」(「佐久間書房」)

10月

岩野泡鳴「新自然主義」(「日高有倫堂」)

10月

長谷川天渓「近代的女性」(「太陽」文芸時評)。結婚と女性の個人性

10月

泉鏡花作、柳川春葉脚色『婦系図」初演(新富座、伊井蓉峰、喜多村緑彦ら)。

10月

内村鑑三のもとに第一高等学校の読書会の一団、前田多門、鶴見祐輔、森戸辰男、藤井武、三谷隆正、塚本虎二、黒崎幸吉、沢田廉三、高木八尺、岩永祐吉ら入門。

10月

北越製紙長岡工場、開業。

10月

インドネシアに民族主義文化団体、ブディ・ウトモ(純潔なる努力)、結成。ジョクジャカルタで第1回大会。

10月1日

韓国統監府、警察犯処罰令を定める。拘留・科料の罪を規定。

10月1日

台湾総督府、台湾違警例を定め、拘留、科料の罪を規定。

10月1日

「東北評論」第3号、発行人を新村忠雄(21)として発行。安寧秩序紊乱として発行停止。

新村は前橋地裁検事局の呼出しを無視。27日、欠席裁判で軽禁固2ヶ月となる。

11月28日、新村不出頭のため実家に警察の張り込みが続いているのを知り、高崎市に戻り出頭。前橋監獄に入獄。

10月1日

西本願寺、司法省監獄局の依頼で京都に女教誨師養成所を設置。養成期間10ヶ月、京都、大阪堀川西監獄で2ヶ月の実習を課す。

10月1日

改正陸軍刑法、改正海軍刑法(各4月10日公布)施行。

10月1日

監獄法(3月28日公布)施行。

10月1日

三菱合資、社制改革を実施。鉱業部、造船部を独立採算制とする。

1911年1月、営業部、地所部も同様とする。

10月1日

大隈重信が東西文明の調和を目的として設立した大日本文明協会、日本文明協会叢書第1期『欧米人の日本観』3冊などを刊行。

10月1日

(漱石)

「十月一日(木)、曇。小宮豊隆来て泊る。(寺田寅彦、理学博士の学位を授与される。)(高浜虚子、国民新聞社に入社し、文芸部を創設する。松根東洋城に『国民新聞』俳句欄の選を委任する。)

十月二日(金)、小宮豊隆、犬塚武夫宅に寄って、夜遅く帰る。」(荒正人、前掲書)


10月1日

フォード社、T型フォード車の販売開始

標準型をベースに部品に互換性がある初の大衆車。流れ作業方式を開発。1913年迄に人口2000人以上の町全てにフォード車販売店を置く。

10月2日

ハイデラバードの大洪水。ハイデラバード市内の大部分が浸水し、数千人の死者(推定10,000人以上とも)と、多数の住居や歴史的建造物が破壊される壊滅的な被害。

10月3日

清国、警察学堂設立。

10月3日

「十月三日

 陰暦九月九日重陽の節句。

俄かに思立つて千駄ヶ谷に行つた。主人は留守、印刷所に校正に行つたと言ふことで、晶子さんと栗を喰べ乍ら源氏の話などをした。十二時に帰つた。

(略)

吉井君が来た。筑紫の人の事で大笑ひ。さまざま羨ましがらせる事を聞かされて、四時、共に森氏の歌会へ行つた。途中から平野君も一緒。

博士、佐々木君、伊藤君、平野君、吉井君、北原君、与謝野氏に予。外に太田正雄君(初めて逢つた)服部躬治君(同)伊藤左千夫君の弟子古泉千樫君。加古博士も八時頃から来られた。空前の盛会で、加古博士も此次から作るといふのと、信綱君が余程吾々に近い歌を作つたのは珍らしかつた。散会は十一時。

(略)」(啄木日記)


10月3日

トロツキー(29)、アドルフ・ヨッフェ、スコベレフ(学生、後、ケレンスキー政権の労働大臣)の協力でウクライナのメンシェヴィキの新聞「プラウダ(真理)」を自費で再開。党統一派の結集軸となる。1909年にはウィーンで発行。~1912年4月(25号)。


「1908年10月、私はウィーンで、広範な労働者層を対象としたロシア語新聞『プラウダ』を発行しはじめた。この新聞は、あるいはガリチアの国境を越え、あるいは黒海を越えて、ひそかにロシアに届けられた。この新聞は、いいときで月に2回程度の頻度で3年半にわたって発行されたが、その発行には面倒で根気のいる多大な労力を要した。ロシアとの秘密の文通には莫大な時間が費やされた。加えて、私は、黒海の非合法の海員組合と密接な関係を持っていて、彼らの機関誌の発行を援助した。」(トロツキー『わが生涯』)


「ウィーンは当時、ハプスブルク家の首都であっただけでなく、トロツキーの首都でもあった。ロシア社会民主党の亡命者コロニーのほとんどすべては(ただし小規模のものだったが)、トロツキーの影響下にあった。彼には自分の『宮廷』があった。それを構成していた中でとくに近しい面々だったのは、エス・セムコフスキー(エス・ユ・ブロンシュテイン)と彼の妻イレーナ・イズボリスカヤ、ア・ヨッフェ、マトヴェイ・イワノヴィチ・スコベレフだった。彼は当時すでに、自分と自分の盟友たちとのあいだに『距離感』をつくり出すすべを知っていた。彼らはトロツキーを崇拝し畏れていた。私が言っているのは彼のセクトのメンバーのことであり、『トロツキスト』あるいは、彼がウィーンで出していた新聞の名前にちなんで、『プラウダ派』と呼ばれていた」(ピョートル・ガルヴィ『ある社会民主主義者の記録』より)


〈ヨッフェと『プラウダ』編集部〉  

「『プラウダ』における私の主要な協力者は、後にソヴィエトの著名な外交官となるA・A・ヨッフェだった。私たちの親交はウィーン時代から始まった。ヨッフェは、高い思想性を持ちながら、個人的には非常に温和で、大義への揺るぎない献身を有した人物だった。彼は『プラウダ』にその持てる力と手段を注いでくれた。

ヨッフェは、神経の病に苦しみ、ウィーンの著名な医者アルフレート・アドラーのもとで精神分析の治療を受けていた。この医師は、フロイト教授の弟子として出発したが、その後、師と対立するようになり、個人心理学という独自の学派を旗揚げした。私はヨッフェを通じて精神分析学の諸問題に関する知識を得た。この分野ではまだ多くのことが不明瞭であぶなかしく、空想と独断の入る余地がいくらでもあるが、それでも私はこの学問に大いに興味をそそられた。

私のもう1人の協力者はスコベレフという学生で、後に、ケレンスキー政権の労働大臣になった男である。1917年に私と彼とは敵として相まみえることになる。一時『プラウダ』の書記をつとめていたのは、ヴィクトル・コップである。彼はいま、スウェーデンのソヴィエト公使になっている。

ヨッフェは、ウィーン『プラウダ』の仕事のため、ロシアに出かけて活動に従事した。その彼はオデッサで逮捕され、長期間投獄されたのち、シベリアに流刑になった。彼が釈放されたのは、ようやく1917年の2月革命によってであった。ヨッフェは、10月革命の最も積極的な参加者の1人だった。重い病気を持ったこの人物の個人的勇気は実に見事なものだった。1919年の秋、砲弾で穴だらけになったペトログラード郊外の戦場に立つずんぐりした彼の姿が、今でも目に浮かぶ。外交官の洗練された服装に身を包み、落ち着き払った顔に柔和な微笑みを浮かべながら、ステッキを手に持ち、あたかもウンテル・デン・リンデン通りを歩いているように、ヨッフェは、歩みを早めもせず遅らせもせず、近くで砲弾が炸裂するのをおもしろそうに眺めていた。

ヨッフェは、思慮深く心のこもった演説をするすぐれた演説家であり、著述家としてもそうであった。どんな仕事においても、ヨッフェは小さなことに細やかな神経を使っていたが、これは多くの革命家に欠けていた資質だった。レーニンはヨッフェの外交官としての仕事を高く評価していた。私は長年にわたって、誰よりもこの人物と深いつきあいがあった。その思想上の志操堅固さはもとより、友情への彼の献身は比類なきものだった。」(トロツキー『わが生涯』)


「ヨッフェの生涯は悲劇的な結末を迎えた。重い遺伝性の持病は彼をすっかり衰弱させていた。それに劣らず彼を衰弱させたのは、マルクス主義者に対するエピゴーネンどもの野放図な迫害であった。病気と闘う可能性を奪われ、したがってまた政治闘争の可能性をも奪われたヨッフェは、1927年の秋に自ら命を絶った。私に宛てられた遺書は、スターリンの手先によって、こっそりとベッドサイドのテーブルから持ち去られた。友人としての思いやりを込めて書かれた章句が、ヤロスラフスキーをはじめとする内的に堕落した連中によって遺書から削りとられ、歪曲され、中傷された。だがこのことは、ヨッフェが革命の歴史にその最良の名前の一つとして永遠に書き記されることを妨げはしない。」(トロツキー『わが生涯』より)

(ヨッフェは1927年11月、病気の苦しみとスターリン官僚制に対する絶望から自殺を選ぶ。そのときトロツキーに宛てたヨッフェの遺書は、レーニンのように断固として己の道を歩むようトロツキーに訴えていた)


10月3日

蘭領東インドのジャワで5月20日設立された知識人民族主義者運動のブディ・ウトモ(純潔なる努力)第1回総会。ジョクジャカルタ


つづく

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