神奈川 丹沢の山々(2012-02-04)
*貞観11年(869)
この年
・この年、待賢門扉の火災。
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5月
・この月、夜間に新羅の海賊船2隻が博多津に来襲、豊前国の運京物(年貢の絹綿)を略奪して逃走(『三代実録』貞観11年6月15日、7月2日、12月5日条)。
海辺の百姓56人が死力を尽くして戦い賊徒2人を射傷させたが、大宰府が発兵追捕しても捕らえられなかった。
この報に接した政府は大宰府を譴責し、また伊勢神宮や石清水八幡宮以下に奉幣するとともに、今後は貢綿船を集団で航行させよ、また夷俘(降伏した蝦夷)を動員して火急に備えさせよ、博多に置かれた鴻臚館(こうろかん、使節・商人の迎接施設)に武具を置けなどの対応策に追われる。
翌12年、新羅に捕まったのち逃げ帰った対馬の住人が、新羅では材木を挽き運び、大船を構え作り、鼓を打ち角を吹き、士を選び兵を習わせていたので、いったい何事かと尋ねたところ、これから対馬島を伐ち取りに行くと答えたので、慌てて脱獄して帰ってきたという。
大宰府は事件後政府に、100人ずつ2班の俘囚常備軍を編成し、1月交替で要所に配置して非常事態に備えたいと申請。
この時の大宰府の言上では、夷俘(俘囚)の軍事力の優秀性について述べられている。
かつて新羅海賊が侵略した日に、大宰府の正規軍である統領・選士(天長三年(826)に軍団兵士に代えて設置した騎馬兵力で、富裕農民から選抜された)を派遣したところ、みな弱くて臆病であったが、俘囚を徴発したところ、意気みなぎり、一を以て千に当たる勢いであったという。
そこで統領・選士とともに、俘囚を大宰府の常備兵として位置づけることとしたのである。
この頃、諸国受領は俘囚を招募して群盗海賊の追捕にあたらせている。
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・この月、東北地方で大地震(貞観の大地震)。
陸奥国からの報告によると、大地震が発生すると、人々は泣き叫び立っていられず、建物が倒れて圧死する人、地が裂け生き埋めになる人があり、城郭・倉庫・門・塀なども倒壊した。
海は雷のような轟音を立てて沸き上がり、「城下」に押し寄せ、皆海底となった。
船に乗ったり山に登る暇もなく千人ほどが溺死したという。
「城」は多賀城(宮城県多賀城市)か。
「(貞觀十一年五月)廿六日癸未。陸奥國の地、大いに震動す。
流光晝の如く隱映(いんえい)す。
頃(しばら)く、人民叫呼(きょうこ)し、伏して起(た)つ能はず。
或(あるい)は屋仆(たお)れて壓死し、或は地裂けて埋殪(まいえい)す。
馬牛駭(おどろ)き奔(はし)り、或は相(あい)昇踏(しょうとう)す。
城郭倉庫、門櫓(もんろ)墻壁(しょうへき)、頽落(たいらく)顚覆(てんぷく)するもの、其の數を知らず。
海口(かいこう)哮吼(こうこう)し、聲は雷霆(らいてい)に似たり。
驚濤(きょうとう)涌潮(ようちょう)、泝徊(そかい)漲長(ちょうちょう)し、忽ち城下に至る。
海を去ること數十百里、浩々(こうこう)として其の涯涘(がいし)を弁ぜず。
原野道路、惣(すべ)て滄溟(そうめい)と爲(な)る。
船に乘るに遑(いとま)あらず、山に登るも及び難(がた)し。
溺死する者、千許(ばか)り、資産苗稼(びょうか)、殆んど孑遺(けつい)無し。」
(『日本三代實錄』巻十六)
〔現代語訳〕(意訳)
(貞観11年5月)26日癸未(みずのとひつじ)の日。陸奥国(むつのくに)に大地震があった。
夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。
しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。
ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。
馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけ合ったりした。
多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆(くつがえ)ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。
河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。
荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡(さかのぼ)り膨張して、忽ち城下に達した。
海は、数十里乃至(ないし)百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。
原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。
船に乗って逃げる暇(いとま)もなく、山に登って避難することもできなかった。
溺死する者も千人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。」
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8月
・『続日本後紀』20巻を撰上。
良房のもとで編纂されたいわゆる「六国史(むつこくし)」の一つで、仁明天皇の治世を対象としたもの。
編者のうち大納言伴善男は応天門の変により伊豆国に流され、その翌年に右大臣藤原良相は没した。
序文によれば、良房と参議春澄善縄(はるすみのよしなわ)とがそれの仕上げにあたったという。
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9月
・『貞観格』12巻を施行。
『貞観格式』は、右大臣藤原良相が太政大臣良房と協議し、天皇に奏して、弘仁11年(820)~貞観9年(867)の格・式を編集したもの。
編者は、大江音人(おおえのおとんど)、清公の後継者菅原是善(すがわらのこれよし)ら。
格は貞観11年(869)年9月に、式は貞観13年(871)年10月に、内外の諸官庁にわかち実施に移した。
この頃、実際政治の不振と法制の整備が顕著な対照を示すようになる(律令政治の形骸化が進む)。
『弘仁格』より2巻多く、この2巻は、中国で編纂された格(『開元格』)に倣って「臨時格」と呼ばれる。
天皇・皇后・皇太子の服装を規定した弘仁11年詔はここに収められている。
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9月7日
・紀春枝を検陸奥国地震使に任命し、判官と主典を夫々1名ずつ随伴させて派遣する。
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10月13日
・詔を発し、死者を埋葬させ、被害の大きい者は租調を免じ、あまねく賑救を行う。
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12月5日
・夷俘50人を一番として、1ヶ月交替で鴻臚館・津厨などを守らせることとなる(『日本三代実録』『類聚三代格』)。
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