JR線に沿って千本通り(旧朱雀大路)を南下。
梅小路公園の一部になっている平清盛の西八条第跡に行った。
現況は、下のように看板一つ立っているだけである。
西八条第について、高橋昌明「平家の群像」(岩波新書)より引用する。
(青字が引用部分)
仁安三年、清盛が出家入道し、さらにその翌年春、摂津福原に退いた。・・・
清盛の福原への退去にともなって、六波羅の泉殿も重盛が引き継いだ。
清盛は六波羅では妻時子といっしょに住んでいたが、夫婦はともに泉殿を出て、かたや福原かたや西八条に居を移した。
夫婦仲が悪かったわけではない。清盛は多情だが愛妻家である。
西八条亭は平家の京都におけるもう一つの拠点であった。
当時の市街地の南西隅にあたる。
最盛期にはひかえめに見ても一二〇メートル四方の街区(町)四つ分がまとまった空間に、大小五十余棟の建物が並んでいた。
中心は八条坊門櫛笥(くしげ)のそれ。
もともと時子の持ち物で、清盛が福原から上洛した時は、必ず古女房のいる西八条に入った。
一方、六波羅には徳子のお産見舞いの時以外、足を運んだ形跡がない。
清盛夫妻は後継の氏長者重盛と、こういう形で完全に住み分けをしていた。
治承4年の以仁王の反乱が発覚した際も、清盛は福原からこの西八条に入り、対策を指示している。
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▼3月にオープンという水族館
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平家の群像 物語から史実へ (岩波新書)
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