東京 江戸城(皇居)梅林坂(2012-02-21)
*永禄12年(1569)
1月27日
・信長、本圀寺の防御が弱いことを懸念して村井貞勝・島田秀満に命じて二条御所(「勘解由小路室町真如堂光源院の御古城(義輝御所の跡地)また御再興」(『言継卿記』同日条))の造営を着工させる。
2月2日、石垣普請開始。14ヶ国衆(通常2万5千、少ない時でも1万5千)が従事。
7日午前、山科言継、普請場に信長を見舞う。西方石垣は大方完成。聖護院道澄・三好義継が見舞に来訪。聖護院道澄・徳大寺公維以下方々より多くの贈物が届けられ山科言継は驚く。
9日、石垣南岸が崩壊し人夫7、8人が死亡。普請には日々数千人が携わる(「言継卿記」4)。
13日、義昭が見物。
14日、山科言継、普請場に信長を見舞う。
19、23、24、26~29日、3月1、2日にも。以降も続く。
天皇と信長の懸案①:
信長は二条新第の石垣に京都の石仏・石地蔵を徴発、これを割って石垣の材料とする。また、殿内装飾に大寺社の金襴の飾りを集めようとする。
仏教徒らは、天皇に直訴して信長の暴挙を止めさせようと願出るが、効果なし。
天皇をもってしても信長の政策を変更できず。
この時信長に従い上洛したのは五畿内・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波11ヶ国の軍勢で、御所造営には伊賀・播磨の武士も加わる(「言継卿記」正月12日・2月2日条)。
これらの国が義昭・信長の命令が直接及ぶ範囲。
越前朝倉義景は上洛命令を無視し、敦賀の金ヶ崎・天筒山両城や北陸道の木ノ芽峠、湖北の木ノ本方面と結ぶ中河内・椿坂などの諸城を固めさせる(「越州軍記」)。
この御所は石垣で築かれた二重の堀をもち、「天主」(『元亀二年記』)と呼ばれた「三重櫓」(『言継卿記』元亀元年七月二十二日条)も備えた、近世的な城郭の先駆けと評価できるもの。
規模は、義輝の新御所をはるかに上回り、その範囲は、北は近衛大路(のちの出水通り)、南は春日小路(のちの丸太町通り)、東は東洞院大路、西は室町小路(室町通り)に及ぶ。
山科言継の記録。
「今日より石蔵これを積むと云々。尾州・濃州・勢州・江州・伊賀・若州・城州・丹州・摂州・河州・和州・泉州・播州少々悉く上洛、石これを持つ。先づ西の方云々。」(「言継卿記」2月2日条)。
「西方石蔵大概出来、今少し残り了んぬ。高さ四間一尺と云々。」(同7日条)。
「日々数千人の普請なり。」(同9日条)。「石蔵西面悉く、又南面半分過出来(シュッタイ)なり。」(同14日条)。
「西南石蔵大概出来す。」(同19日条)。
「内の磊(クラ)大概今日悉く出来。」(同3月7日条)。
「南御門昨日櫓を建てこれを揚ぐ。」(同11日条)。
「西の門矢蔵(ヤグラ)これを取り立つ。御庭の石大概これを立つ。三四百計りか。」(同28日条)。
「磊三重悉く出来の上、又南巽のダシノ磊出来。只今東のダシこれを沙汰す。少々出来。」(4月2日条)。
「耶蘇会士日本通信」のフロイス書翰の記録。
「三つの堀と数箇所の新なる稜墜」を備えた堅固の要塞(天正元年(1573)5月27日付)。
「工事は日本に於ては嘗て見たることなき石造とするに決せしが、これに用ふる石なきを以て多数の石像を倒し、頸に縄を付けて工事場に引かしめ
・・・石の祭壇及びフオトケス(仏)即ち偶像を地上に倒して之を破壊し、車に積んで運搬し・・・」
「都の人、偶像を尊崇すること大にして、異常の恐怖を懐きたり。領主の一人その部下を率い、各寺院より日々一定数の石を搬出せり。
・・・又は堀を掘り、土を運び、他の者は山中に於て木材を伐り、恰もイェルサレムの殿堂の建築、又はデイドのカルタゴ市建築工事の絵図を見る如くなりき。」(永禄12年(1569)6月1日付)。
昭和49(1974)年6月~京都市営地下鉄烏丸線建設に伴う遺跡調査の結果、出水~丸太町間(勘解由小路~春日通り)の発掘現場で旧二条城の石垣が発見された。
まず中御門大路(椹木町通り)で南面の石垣と犬走を伴う堀が発見され、出水・下立売(烏丸勘解由小路)・丸太町(烏丸春日)の4ヶカ所でも同時代の濠が確認され、南北約390mという広大な城郭の基盤部分が明らかになった(烏丸線内遺跡調査会烏丸レポート発行部会編「烏丸レポート5」)。
濠幅16.7m、石垣高さ3.8m超で、石材には石仏・板碑・礎石・五輪塔などが転用され、その石地蔵・石仏の殆どが腹部で真っ二つに断ち割られていた。
フロイスの記録の正しさが確認できた。
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①二条御所跡の碑(コチラ)
②現在の二条城にある石垣遺構(コチラ)
③京都御苑内にある石垣遺構(コチラ)
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