東京 北の丸公園(2012-02-13)
*元慶3年(879)
この年
・赤斑瘡(あかもがき、麻疹)が流行。
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1月7日
・菅原道真(35)、従五位上となる。
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5月
・清和上皇、栗田院(基経の山庄)で頭髪をおろして俗界を離れる。
清和は早くから真言宗の僧真雅(しんが)に導かれていた。
この僧は、良房らの依頼をうけて、清和の立太子実現のために修法を行ったと伝えられる。
清和は異母兄惟喬をさしおいて皇位についたことについて苦悩を深くしており、これが彼の仏門入りの原因の一つ。
この年、清和は、参議在原行平・藤原山蔭らを従え、山城国の貞観寺(清和が真雅のために建てた)から大和国の東大寺・竜門などの諸寺、摂津の勝尾守を巡礼して山城国の海印寺に帰り、再び丹波国の水尾山に入り、この山を終焉の地と定めて寺を建てる考えであった。
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10月
・大極殿再建。
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11月
・関白基経ら『日本文徳天皇実録』10巻(文徳天皇一代の正史)を撰述。
貞観13年(871)、基経・南淵年名(みなみぶちのとしな)のもとでその編纂が始まり、大江音人(おおえのおとんど)・善淵愛成(よしぶちのちかなり)・都良香(みこのよしか)・島田良臣(しまだのよしおみ)といった当代一流の学識者が参画。
編纂9年の間に年名・音人没し、道真の父是善がこれに加わって完成をみた。
若い道真は、父のすすめでその序の文章を代作した。
六国史の第五。文徳天皇の代、嘉祥3年(850年)から天安2年(858年)までの8年間を扱う。
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12月
・この月、班田使を任命。
参議源舒(のぶる)-山城国、参議忠貞(たださだ)王-大和国、中納言藤原冬緒(ふゆお)-河内・和泉両国、参議藤原山蔭(やまかげ)-摂津国という最高スタッフと管轄である。
これまでの慣行では班田使がその管轄の国に出向いたが、畿内諸国の疲弊が甚だしく、班田使の滞留にともなう経費の加重を考慮し、平安京にあって統宰することに改めた。
ただし、山城国に対しては、左少弁巨勢文雄以下4名の吏僚を派遣して、国司をバックアップさせることにした。
山城国は京に近接している関係上「権豪」が多く、それらによって班田の作業を妨げられることを警戒した。
しかし、他の畿内諸国もそれに近い状況であり、七道諸国についても多かれ少なかれ同じように、中央を脅かす勢力が成長していた。
土豪・有力農民は、50年にわたる班田中絶のあいだに、多くの零落民から夥しい口分田を、さまざまな方法で奪い、自己の農業経営の要地に編入しており、班田を歓迎していない。
政府はそれを考慮して、さしあたり山城国だけに上記の措置を講じた。
班田制の全般についていえば、基経らの対策は徹底を欠いたものである。
口分田の額の変化。
令制では男子2段、女子はその1/3(1段120歩)の定めがあった。
それが天長5年(828)の班田のでは、京戸の女は僅か30歩しか与えられなかった。
今回の班田(元慶4年の班田)では女子への給田が全く無くなり、その分を男子にまわしている。
また山城国では、男子への給田額は水田1段180歩・陸田60歩であった。
政府管理下の田地が土地の荒廃(それも班田農民の疲弊が主因であるが)、有力者による土地集積などによって、たいへん減少していることがわかり、班田の作業に力を入れても、その結果は、一般農民の要望からほど遠いものであった。
京・畿内諸国における班田の終了には、元慶4年以来数年を要した。
元慶7年(883)12月、政府は大和国司の怠慢を責め、班田励行のために中央から官人を派して、それの促進に協力させている。
この国には、東大寺・興福寺などの大寺院が蟠踞しており、土地調査や班田は、国司らの意のようにならなかった。
中央政府は七道諸国に対しても班田実施を命じたが、旧慣に従って作業は各国の国情に委ねている。
全体として、校・班田の事業はスムーズには行かなかった。
国司らは校田が終われば、それを太政官に具申し、その返報を待って班田に着手することになっていたが、返報は延引しがちで、班田の時期を失することが少なくなかった。
それで、仁寿3年(853)5月、太政官は旧制をやめて、国・郡司は校田の終わり次第に、返報を待たずに班給することに改めていた。
元慶3年から数年の間に、大宰府管下の豊後・筑後・肥前や備後などで班田が実施された形跡が窺われ、仁和2年(886)までには、遠江・土佐・美濃にも同じことがいえる。
記録はないが、他の多くの国々についても班田収授はまがりなりにも実施をみたと考えられる。
摂政基経の太政官政府が、律令的支配の瓦解を食い止めるために何ほどかの寄与をしたし、国司らを叱咤して班田を行わせるだけの政治力を持っていたといえる。
国政の第一線には藤原保則のような良二千石がいた。
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・中央財源や官人給与の補填のため畿内に官田4千町を置く(元慶官田)。
元慶3年12月4日、畿内における班田実施に際して民部卿中納言藤原冬緒の建策によって、班田制度の見直し(京戸の女子の口分田を停止して浮いた分を畿内の男子の口分田の班給に回す)とともに、大和国1200町、和泉国400石、その他3ヶ国に各800町を班田には回さずに官田として、そこから得られる獲稲や地子を公用に充てることが提言されて勅許を得た(『三代実録』)。
これは、従来律令制の下で置かれていた供御田などの官田とは異なるもので、当時中央財政悪化によって京官の給与の基本である月料や要劇料などにも事欠いて、地方の正税・不動穀を転用し続けた結果、地方財政の悪化まで深刻化したために、それに代わる財源を捻出するために考えられたと言われている。
元慶5年(881年)2月の太政官符によりその経営方式の詳細がわかる。
まず、春に営料として町あたり120束を正税より支給し、秋には営料及び獲稲(町あたり上田は320束、中田は300束)を納めさせた。
ただし、実際には官田の半分以上を公営田の例に倣った佃方式、残りを地子(請作)・価直(賃租)方式によって経営していた。
官田は宮内省の監督下に置かれそれぞれの国司が経営の責任者となったが、実際の経営を担当する営田預人として、正長と惣監を設置し、正長には土人(地元民)・浪人(逃亡者)を問わず力田の輩を任じ、郷単位で設置される惣監には下級官人・舎人・近衛・兵衛・雑任などのうち地元に推挙された者を任じた。
この官田から徴収される稲や地子は当時の租税水準からすれば負担が軽く、土豪や富農などのいわゆる「富豪層」にとっても有利な条件で朝廷主導の営田事業に参画させようとする意図があったと考えられている。
だが、同年11月には早くも1/3弱にあたる1235町2段余りが諸官司に分配され、その後も分配が続いた(昌泰元年(898年)段階で2306町しか残っておらず、逆算すると1700町前後が分配されたとみられる)。
また、公営田方式の衰退と共に官田も佃方式が行われなくなり、地子田として経営されるようになった。
その後、荘園公領制の展開とともに残された官田も国衙領・官衙領に移行されたと考えられている。
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