元慶8年(884)
6月
・この月、石見国邇摩(にま)郡司・那賀(なか)郡司らが、「政(まつりごと)が法に乖(そむ)く」を理由に百姓217人を率いて同国権守上毛野氏永(かみつけぬのうじなが)を襲撃拘禁し、受領の権力を象徴する印鎰(いんやく、公文書に押す国印と国衙正倉のカギ)を奪って同国介忍海氏則(おしぬみのうじのり)に渡した。
事件の報告は忍海氏則と被害者の氏永とから別個に政府に寄せられ、その内容にかなり大きなひらきがあった。
そこで政府は、式部大丞坂上茂樹・勘解由主典(かげゆのさかん)凡康躬(おおしのやすみ)らを石見国に派遣して推問させた。
判明した事件の概要は、邇摩郡大領正八位上伊福部安道(いふくべのやすみち)・那賀郡大領外正六位下久米岑雄らが張本人となり、百姓217人を召集して武装させ、権国守氏永の館を包囲した。
そして、彼が保管する国印・匙(ひ、かぎ)・駅鈴などを奪ってそれらを傍吏(ほかの国司)に授けた。
氏永は襲撃を知るや、逃れて近くの介忍海氏則の館に隠れたが、その館の外に数10人がざわめいていたので、危険の身に迫るのに慄き、また氏則も安道らに同調していると思い、剣をもって氏則の妻下毛野屎子(くそこ)とその侍女大田部酉子を殴打し、さらに屎子の着ていた大衣を奪いとってそれを被り、館を出て山中に隠れた。
その後、掾大野安雄は、「郡司百姓三十七人」を引き具して氏永を探し捕え、その身体を縛って暫く倉に閉じ込めた。
郡司の安道らに加担した者に、延暦寺の僧一道(いちどう)と右京の人藤原豊基の家族で俗名数直(かずなお)がいた。
この報告に基づき、仁和2年(886)5月、刑部省は、郡司安道を解任して徒(ず)2年・贖銅(罪をあがなうための銅)10斤に、郡司岑雄をば贖銅10斤に、権国守氏永を近流(こんる)に、掾の安雄を解任して徒1年に、また一道と数直を還俗のうえ徒1年に処した。
それ以外の郡司・百姓らもそれぞれ罪状により処断された。
これらは受領に反発する任用や、過酷な課税に反発する郡司富豪層を中心とする「党」による受領襲撃事件の典型であり、これら受領襲撃事件も群盗と呼ばれた。
調・庸運京過程での横領略奪にせよ、受領襲撃事件にせよ、群盗海賊は任用・郡司富豪層による反受領闘争という側面を有していた。
郡司富豪層たちは、受領支配への抵抗という当面する共通の目的を達成するために、横断的な「党」を結成して立ち向かった。
しかし9世紀の「党」は、当面する目的を達成するために一時的に結集しただけの組織であり、この「党」がそのまま中世武士団の「党」のような強固な連合に発展していくわけではなかった。
律令国家と国衙(受領)は、これまで経験したことのない党的結合にもとづく群盗海賊=反受領武装闘争という事態に、新たな軍事的対応を迫られることになった。
政府・国衙は9世紀の群盗海賊を、8世紀に殆ど使われることのなかった捕亡命「臨時発兵」規定を適用して鎮圧しようとした。
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8月
・上総国で、前任の土着国司が、その子弟や富豪浪人らと武力集団を結成し、公民の農業を妨げたり、現任国司と対立し、納税を拒否していることが告発されている(『日本三代実録』)。
この頃の国司の任期は4年で、任官は、毎年春・秋に行われる除目で決定される。
まず、それに先だって、希望する官職や自分のこれまでの功績を書き込む自薦状(申文:もうしぶみ)を提出しなければならない。
国司になれば、任国で莫大な利益をあげることができるので、国司になれるかどうかは、貴族にとって大きな関心事であった。
信濃守藤原陳忠(のぶただ)が谷底に転落したにもかかわらず、ヒラタケというキノコを両手に一杯抱えてあがってきて、「受領(国司の内の最上位の者)ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」と言って、その貪欲さに従者もあきれたという話がある(『今昔物語集』巻28)。
また、貧欲な人物の形容として、「受領神に取り憑かれる」という言い回しもある。
従って、受領に任命されるのを希望する者は多く、高い家柄や皇室・摂関家と親しい関係にない者はなかなか任命される機会に恵まれなかった。
また、一度任じられたとしても、順番待ちを強いられ、次に受領になる見込みはなかなか立たなかった。
国司の土着
国司は任期が終わると、新任国司との間で、交替事務を行わなければならなかった。
任期中、官物(租・庸・調・公出挙など)を規定どおり徴集し、欠損を生じさせていないか、国府や国分寺・神社をはじめとする建物を修理したかなど、厳密な事務引き継ぎ業務があり、新任国司の同意を得られなければ「解由状」と呼ばれる事務完了報告書を受け取ることができなかった。
しかも一般的には、欠陥があるとして「不与解由状」を発給され、俸給から補填するのが通例であった。
また作成された文書も勘解由使に提出され厳しい審査を受けた。
さらに、交替事務を完了したとしても、上流貴族とのコネがなければ、順番待ちを強いられ、次の職務にもなかなか就けないという厳しい現実もあった。
このようなわけで、中下級の貴族たちは、都に帰ることをやめ、任国に土着する場合が増えていった。
律令国家は、何度も任期後の国司が土着することを禁止したが(『類聚三代格』巻19)、その成果はなかなかあがらなかった。
彼らは、五位という地方では稀な位階を有していたから、貴種(貴い身分)として尊ばれ、郡司などの在地の有力者と婚姻関係を結び、荘園や商業を営んで、自活する道を選んだのだ。
貴種とマレビト信仰
古語で「客人」のことを「マロウド」というが、これは「マレビト」のことである。
折口信夫の研究によれば、日本には古来より共同体の外から神が訪れるという民俗信仰があった。
共同体では、春に来訪した神をもてなして豊作を祈願した後、再び秋には祭祀を行い、共同体の外に送り出すという神事を繰り返していた。
このような民間信仰を背景として、外から訪れた身分の高い人々は歓迎され、丁重に接待された。
日本で貴種が尊ばれた根底には、このマレビト信仰がある。典型として源頼朝がいる。
東国の郡司たちは、積極的に貴種としての国司を娘婿として迎え入れ、そのもとにしだいに統合されていったと考えられる。
富豪浪人。
浪人とは、本貫地(戸籍に登録された地)を離れた者のこと。
律令国家では、本貫地に人々を縛り付けて移動を認めないのを原則としたが(これを本貫地主義という)、浮浪・逃亡が増えてくると、移動先の戸籍に再登録し、税を徴収する方策を生み出した。
これは、一時的には税の増収をもたらしたが、他方、浮浪を公認する道筋が生まれたことを意味する。
浮浪というと、一般的には税を払えない下層農民であるが、なかには富裕な階層の人々も含まれていた。
院宮(いんぐう、上皇や女院)王臣家はここに着目して、所有する荘園の長(荘官や荘長)や耕作者として、浪人たちを雇い入れた。
一方、このような荘園は、在地社会では大きな権威を持っていたから、浪人たちにとっても、国家の追求から逃れる格好の隠れ蓑であった。
彼ら浪人たちは、荘園経営に携わることによって富豪化し、徴税のために国司が派遣した使者(収納使)や郡司たちに対して、官物の納入を拒否したり、時には暴力行為に及んだ。
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