2012年2月7日火曜日

永禄12年(1569)1月5日 三好三人衆、将軍義昭の居所本圀寺を攻撃 [信長36歳]

東京 江戸城(皇居)東御苑(2012-02-02)
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永禄12年(1569)
この年
信長36歳、光秀42歳、秀吉34歳、家康28歳
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・大名の搾取とそれに吸着する高利貸収奪の一体性。
今川氏真、駿河大平郷の小領主で給人の星谷右衛門尉に、「在々所々借置米銭、急度令催促可請取之、次福島伊賀守仁出置切符辰年未進分、是又可催促、若百姓等於令難渋者、重而可加下知」との朱印状を下す。
これは大平郷の年貢徴収の役にあたる星谷が、百姓の未納分を肩替りして納入し、それを百姓への米銭貸付の形としており、大名朱印状によってその取立てを認めるもの。
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・この年の春、ロシア、イヴァン4世(雷帝)、最近モスクワに合併した2大都市に人質を要求。
ブスコフ500家族、ノブゴロド150家族がモスクワへ移住。
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・レガスピ司令官のスペイン遠征隊、フィリピン・パナイ島を征服。
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・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、ユグノー指導者に賞金。
コリニーに5万エキュ、ダンドロとラ・ロシュフコーに3万エキュ。
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・フランス、フランシュ・コンテ地方に集結のツヴァイブリュッケン公ヴォルフガンクの部隊、フランスに侵入。
ブルゴーニュを侵略した後、コリニーと合流するためサントル地方を目指して西下、ラ・シャリテでロワール川渡河。
コリニー、ツヴァイブリュッケン公に合流すべく北上。
ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガンク、コリニーと合流後、消化不良と鬱血がもとで急死。
ユグノー軍、コリニーが総指揮、コンデ息子とアンリ・ド・ナヴァールが補佐。
ギーズ公アンリ、ポワチエへのコリニーの攻撃を死守。
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・フランス、シャルル9世(19)、マリー・トゥシェ(19)を寵姫とする(ユグノー、父は地方の裁判長)。
シャルル9世とマリー・トゥシェの間に男子1人誕生、アングレーム公。
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・フランス、シャルル9世、オスマン帝国と通商条約締結。
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・オラニエ公ウィレム1世、「私掠船」を許可(後、オランダ海軍に発展)。
私掠船:
シー・ベガーズ(オランダ語、ワーテル・ヘーゼン)、海の乞食。
許可条件として規律を要求(牧師を乗船させ、船員達に神の教えを伝える。悪事をなした人間は乗船不可)。
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1月
信長、堺に使者を出し、徹底的に攻撃すると宣言
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・武田信玄、旧今川給人に対する知行宛行を集中して実施。
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・毛利元就、足利義昭へ周防国徳地村を「料所」として献上する旨を申し出る。
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・トスカナ大公コジモ・デ・メディチ、愛人カーミラ・デ・マルテッリを正式夫人とする。
但し、大公妃の称号なし。カーミラ父アントーニオはサン・ステファーノ教団騎士に任命。カーミラはフェルディナンド枢機卿と通じる。
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1月2日
・三好長逸(ながゆき)ら三好三人衆1万余、河内乱入、中堀に布陣。
3日、山城の美豆。4日、洛外東福寺に本陣。

この時点で、義昭は、三好方の進撃の噂が事実か確認できず、確認の上で信長に連絡するとの由を村井貞勝に内談(「足利季世紀」)。
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1月2日
・家康(28)、犬居城主天野景貫に本領を安堵。
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1月3日
・堺、今井宗久の茶会に宗及・利休が招かれる。堺の和平派。
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1月5日
三好三人衆、将軍義昭の居所本圀寺(下京区堀川五条西南一帯)攻撃
日蓮宗寺院僧侶、三好長逸に本圀寺攻撃猶予求める。

三好軍来襲を確認した本圀寺では、細川左馬頭・三淵大和守等が評定を行い、彼等と義昭が惣門を堅め、野村越中守を駆引大将に決める。
他、楯籠もる者は、細川典廐・津田左近・津田左馬丞・明智光秀等で総勢2千余。

夜半、高槻から元斎藤家家臣赤座七郎右衛等が駆けつけ、門前の四辻を堅める。
又、尾張からは織田左近将監・同左馬允・内藤備中・山県源内・宇野弥七郎(山県・宇野は若狭)、三河からも村越孫六郎・賀藤三丞等が駆けつける。

三好軍先陣薬師寺九郎左衛門は、門前を焼き払い本圀寺を襲撃、矢庭に約30騎を射倒し、本圀寺勢は危機。

摂州の救援隊が駈け付ける
(三好義継3千をはじめ、細川藤孝・池田勝正・同清賓斎・同八郎・同三郎・同豊後守・同周防守・同久左衛門・伊丹親興・荒木弥助(村重)・茨木・和田惟政・渡辺宮内少輔・萱野重政・田能村伊賀守・有馬伊予守・白井主水正・粟生谷兵衛尉・長柄八郎左衛門・安威三河守・芥川伊予守・畠田但馬守・中川清秀・布引舎人助・長目清助・桜塚庄兵衛・菅出雲守・下村勝重・曾根崎喜三郎・池田助次郎・高山藤蔵等総勢5千余)。

この内、高槻の入江春継は、三好為三・同兵庫頭を呼び入れ寝返り、西国街道を遮断して摂州からの援軍を足止めさせた為、伊丹・池田勢は神内梶折から北の山へ入り、忍頂寺(茨木市)越えをし、難所の原芳賀谷を通る。

5日夜、三好軍は三好日向守・岩成主税助等に兵3千を与え軍を二分し、摂州軍を桂川で追い返す作戦を考える。
しかし、池田・伊丹軍は寒空の中を山越え・川越えをして来た為、桂川到着後、戦える余力なく、三好義継軍は退却し、池田勝正は途中で池田城へ引き返す。

残りの摂州軍勢で応戦するが、本圀寺籠勢中の美濃勢等数十人が門外に出て合流し三好軍本陣を襲撃、首数2,700余討ち取る

三好勢は伏見を目指し敗走。
伊丹軍は、精兵伊丹勘左衛門尉はじめ数十人を失い、親興自らも3ヶ所に怪我。

「三好日向守(長逸)・同下野入道釣竿(政康)・石成主税助(友通)以下、今日ことごとく本国寺を取りつめこれを攻める」(『言継胸記』正月5日条)。

「三人衆以下、申の刻、敗軍」(『言継卿記』6日条)。
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1月5日
・本願寺顕如、信長の上洛を祝し、太刀などを贈る。この親交は翌年正月まで続く。
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1月6日
援軍池田勝正、三好義継・和田・伊丹忠親らと共に出兵し三好三人衆と桂川で戦う
三好笑岩・岩成友通ら、三好義継・細川藤孝を攻撃、嵯峨へ潰走させる。
援軍池田勝正、逃帰る。

しかし、援軍伊丹親興の来援により形勢逆転。
御所勢、三好勢を追撃。
8日夜、三好義継・細川藤孝・池田勝正、勝龍寺城に帰還。
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1月6日
・三好勢来襲を知らせる急使、岐阜到着。
7日、信長(36)、近習11騎で岐阜発。兵は後を追う。この日、近江高宮着。翌8日、勢田着。

(三好軍は4日には京都塩小路に迫っており、信長への注進も信長の進撃も遅い。
恐怖を演出し、救出支援を演出して恩を売る手法。(立花京子))
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