2012年2月3日金曜日

貞観4年(862)~貞観5年(863) 海賊、疫病、地震 神泉苑で盛大な御霊会(祇園祭の起源)

京都 神泉苑(2012-01-24)
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貞観4年(862)
4月
・この月、清和天皇の詔というかたちで、太政大臣良房は、太政官の参議以上に、「時政の是非」「世俗の得失」について論議させる。
しかし、記録・法令集(『類聚三代格』)にはこの論議によってうみだされたといえる新政策は見出せない。議論だおれに終わったと考えられる。
そもそも詔の文辞が美辞に満ちた空疎なものであった。しかも、その詔は、公卿たちの立言に対し美辞を誡めている。
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5月
・菅原道真(18歳)、 文章生(もんじょうしょう)の試験を受け、合格し文章道を学ぶ。
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5月10日
・常陸に移配の俘囚、吉美侯酒田麻呂、父母に孝行を尽くしているとの理由により大初位下を授けられる。
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5月20日
・備前国の船が瀬戸内海の海賊の襲撃をうけ進官米80斛(こく)が略奪され綱丁(こうちよう、運京責任者)11人が殺害されたとの国解(こくげ)に対し、この日、政府は、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の諸国に、「人夫」を動員して海賊を追捕せよとの官符を下す。
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貞観5年(863)
5月
・この月、朝廷は、疫病流行に触発されて神泉苑において盛大な御霊会を催す。

左近衛中将藤原基経らが公けの会式(えしき)の執行にあたり、王公諸臣が参集。六霊座をもうけ花果をそなえ、律師慧達(えたつ)は、講師として、金光明経1部・般若心経6巻を演述。
雅楽寮の伶人(れいじん)は音楽を奏し、幼帝に近侍の児童や良家の少年たちは舞いを演じる。
大唐・高麗の舞いのほか、雑芸(ぞうげい)の類も上演。

この日、朝廷は神泉苑の四門をひらいて、都内の人々が自由に御霊会に加わること許可する。
世上に漂う不穏を鎮める為に、朝廷は、都民の参加を前提にしてこれを計画した。
そもそも宮廷の御霊会の源流は民間にあったので、神泉苑の御霊会は二次的なものといえる。

この年は春から疫病(咳、インフルエンザ)が蔓延し、それが地方にも伝播し、多くが死亡した。
それまでも、疫病の災は人々を脅やかし、人々はこれを御霊(怨霊)の崇(たた)りとして、それを慰める営みを集団で行っていた。
それが御霊会である。

ここでの御霊とは、崇道天皇(早良親王)・伊予親王・その母藤原吉子・藤原仲成・橘逸勢(たちばなのはやなり)・文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)で、いずれも宮廷における紛争の渦中に憤死した人である。
はじめ、これらの亡魂は、宮廷の限られた当事者たちに懼れられていたが、貞観期前後には、凶作・疫病を契機として、怨霊への懼れは京畿から地方にまでひろまっていった。

それほどに民衆はうちのめされ、不安にあえいでいた。

祀られた人々の多くは、藤原氏が絡んだ疑獄事件で処分された人々であり、もし、藤原氏が疫病の原因を作ったと考えたなら、民衆の不満が国家に向かわないとも限らない
こうした不満を解消するためにも、民衆を参加させた御霊会を盛大に催すことが必要であると、藤原良房をはじめとする権力者は考えた。

こうした御霊会は、10世紀以後広がりをみせ、祀園社をはじめとする都の寺社で盛大に行われるようになった。
中世、一時中止を経たものの、祇園祭として、現在までその一部が残っている

神泉苑の変貌
文徳天皇以来、天皇ないし朝廷は、この桓武以来の歴史と伝統をもつ大園池から遠ざかった。
広大な池の水は、旱天の年には農民の田に引かれるようになった
ここで仏徒らによる雨乞いの修法がおこなわれ、閉ざされた神泉苑が、都民の生活と結びついてきた。
政府が御霊会の場としてここを選んだのもそのためである。

平安京の内面的推移を物語る新しい歴史的光景である。
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6月17日
・越中、越後で地震。
陸谷所を易え、水泉湧出、民の廬舎崩壊し、圧死者多数。以後毎日余震。(「三代実録」)
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