2012年2月16日木曜日

永禄12年(1569)1月23日 山科言継(63歳)の大納言昇任内定 [信長36歳]

東京 北の丸公園(2012-02-15)
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永禄12年(1569)
1月7日
・北条氏照、上杉輝虎に越相協力して信玄討滅提案。氏康・輝虎同盟成立。
信玄、信長に輝虎との仲裁斡旋依頼。
信長、足利義昭に上杉・武田仲裁進言。
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1月8日
・家康、信玄重臣秋山信友の侵略に抗議、信玄は秋山信友を駿河に退かせる。
この月、北条氏が駿河に出陣、信玄は興津に1万8千をもって対陣。

武田信玄の状況。
信玄は、信長に書状を送り、家康への配慮から遠江へは進軍せず駿府に滞留していると述べる。
北条氏政の攻勢が続き、氏政本隊は薩埵山本陣に到着、両軍は興津川を挟んで退陣。
占領中の駿府にも、安倍川流域の自侍の海野氏を中心とした一揆衆が押しかけ、対応に苦慮。
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1月9日
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、シャロンでユグノーへの応援の為シャンパーニュに侵入したオラニエ公と交渉。
オラニエ公、ドイツへの撤退を約束。
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1月9日
・本庄繁長、少数の兵で輝虎の陣営に夜襲。この戦いで色部勝長が戦死。
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1月10日
・信長軍6千、ようやく本圀寺着。
岐阜で越年した松永久秀を同行。
5月まで京都に留まる。三好三人衆の根拠地堺の三十六衆を降伏させる。

信長の上洛が遅れたのは、「その節もってのほか大雪」(『信長公記』巻二)とあるように、大雪によって美濃と近江の国境付近(関ケ原や伊吹山麓)が通行不能となったことが理由のようである。

信長の反省点:
①将軍御所の貧弱さ(新御所建設に着手)、
②将軍守護の畿内軍勢の弱さ
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1月10日
・丹羽長秀、遍照心院に、寄宿免除の朱印状に別儀ないことを伝える(「大通寺文書」)。
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1月11日
・越後の北塩、深志城下到着。今川・北条により南からの塩輸送禁止。
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1月12日
・家康(28)、掛川城東方の天王山を攻め取り包囲の輪を縮める。
17日、再び掛川城を攻撃。
20日、天王山の戦いで多くの敵を討ち取る。
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1月12日
・信長の攻撃宣言により、堺津中の道具・女子を大坂・平野へ避難させる。
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1月13日
・信長、「殿中御掟」(全9ヶ条、幕府機構内勤務者の規定)、16日、同「追加」(全7ヶ条、幕府の行政施行上の規則)を提出して、義昭の同意を得る。
将軍と幕政の権限規制(信長による義昭傀儡化の第1歩)。
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1月19日
・宮中三毬打。
信長、警固衆500人を率いて禁裏へ出仕。
後、小御所庭で酒肴を下すことになるが、信長が到来しているにもかかわらず銚子が遅れたので退出(「言継卿記」4)。
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1月19日
・信長、近江堅田を保護する全5ヶ条の「定」を下す(「堅田村旧郷士共有文書」)。
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1月20日
・北條氏康、里見氏との同盟を計る
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1月21日
・信長、義昭下知に任せて烏丸光康へ摂津上牧の知行を安堵(「烏丸家文書」)。
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1月22日
・大友宗麟、西海道7ヶ国5万の大軍を動員、毛利氏に通じた肥前の竜造寺隆信を討つべく出陣。
2月16日、筑後国高良山吉見岳に本陣を置く。高良山座主・良寛も僧兵を率いて参陣。
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1月23日
・本多平八郎忠勝、掛川城攻め出発、榊原康政と共に先鋒。
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1月23日
山科言継(63)の大納言昇任が内々に「勅許」される(「言継卿記」)

大典侍局など女官や権大納言万里小路惟房らの推挙もある(「言継卿記」23~25日条)。
永禄元年の伊勢国司北畠具教に対する30貰献金周旋の功や、永禄11年(1568)初めの足利義昭・義栄の両将軍候補への調法などが評価された。

「公卿補任」にも「家に於いて初例」と傍注さる。
言継自身も、「満足の至、手の舞い足の踏むを知らず。家に於いて初例、河辺左大臣以来十三代の中絶なり。盃これを出し各にこれを勧む。」(24日条)、翌日参内して長橋局に赴いた時、正親町天皇から「弥奉公致すべきの由」と奨励される(25日条)。
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1月24日
・飛鳥井雅敦、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚へ、飛鳥井雅敦「拙者寺」の摂津本興寺に織田軍が在陣しないよう信長へ上申を依頼(「本興寺文書」)。
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1月26日
・北条氏康の子氏政、兵4万5千を率い三島出陣、駿河入り、薩垂峠布陣。信玄の背後脅かす。
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