京都 円光寺(2011-12-24)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(16)
「十四 歌舞伎-愛すべきいかがわしさ」(その一)
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昭和2年6月1日
荷風は左團次の演じる岡鬼太郎作「薩摩歌」を歌舞伎座に見に行き、その演技に感服、最高級の賛辞を書く。
「歌舞伎座初日なり、岡氏の作薩摩歌を看る、加賀太夫出語の場松莚子の技殆ど神に入る」
この年はとくに左團次との親交が深い。
「晡下太牙に赴き夕餉を食し本郷座楽屋に松莚子を見る」(5月14日)、
「松莚君頃日竹田玩古洞にて北斎筆美人画一幅を獲たりとて示さる」(5月26日)、
「夕餉の後歌舞伎座楽屋に松莚子を訪ふ」(6月10日)
荷風と歌舞伎の縁は深い。
明治33年20歳、福地櫻痴の門下生として歌舞伎座の座付作者見習いになり約1年を過ごす。
「書かでもの記」(大正7年)にくわしい。
「芝居道熱心」だった荷風は、櫻痴の門下生となり、その口ききで「梨園の人とぞなりける」。
座付作者見習いとは、楽屋内外の下働きで、拍子木を打ったり、来客に茶を入れたり、草履を揃えたりする。
徒弟である。
「作者見習としてのわが役目は木の稽古にと幕毎に二丁を入れマハリとシヤギリの留を打つ事幕明幕切の時間を日記に書入れ、楽屋中へ不時の通達なすべき事件ある折には役者の部屋々々大道具小道具方衣裳床山囃子方等楽屋中漏れなく触れ歩く事等なり」
さらに、立作者の羽織をたたみ食事の給仕をし、始終つき添って働く。
一日の興行がすむまでは厳冬でも羽織を着ないでいる。
『荷風思出草』で、相磯凌霜の質問に答え、拍子木ひとつ打つのでも音を出すまでが大変で「毎晩日比谷へいって稽古しました」と語る。
1年余でこの修業を断念するが、歌舞伎を内側から見る機会があったのは、荷風にとって貴重な体験。
とくに九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎(のいわゆる團菊)を目のあたりに見たことは、感激すべき出来事だった。
「書かでもの記」で、そのときのことを興奮さめやらぬ口調で回顧する。
「九月となりてわれはこゝに初めて團菊両優の素顔とその稽古とを見得たり。
狂言はたしか水戸黄門記通しにて中幕大徳寺焼香場なりしと記憶す。
團十郎はその年春興行の折病に罹り一時は危篤の噂さへありし程なればこの度菊五郎との顔合大芝居といふにぞ景気は蓋を明けぬ中より素破らしさものなりけり」
團菊のうちどちらかといえば、荷風は、時代に応じた新しい歌舞伎を試みようとする團十郎よりも、江戸歌舞伎の伝統をそのまま継承しようとする菊五郎のほうに惹かれるところが多い。
「菊五郎の虎蔵福助の息女を相手にしての仕草六十餘の老人とは恩へぬ程若々しく水もたれさうな塩梅さすがに古今の名優と楽屋中にても人々驚嘆せざるは無かりけり」
そのあとも菊五郎がいかに稽古熱心であったかとその芸に対する執念を賞賛している。
荷風の歌舞伎への理解、とりわけ菊五郎の芸にあらわれた古き良き江戸歌舞伎への愛着はこの時期に作られたといっていい。
荷風が再び歌舞伎と関わるのは、帰朝の翌年、明治42年には市川左團次にはじめて会い、更にその翌年には、劇作家岡鬼太郎に会って、それぞれと親交を深めていく。
この時期、歌舞伎を論じた評論や随筆が多数書かれている。
「一幕見」(明治43年)、「鋳掛松」(同)、「歌舞伎座の桟敷にて」(同)、「芝居小景」(明治44年)、「明治座の二番目」(明治45年)、「藝人讀本」(大正5年)など。
「大窪だより」(大正2年~3年の日記)。
市川左團次や岡鬼太郎との交友が続くこの時期、足繁く劇場通いをしている。
「年賀の帰途初日の本郷座を見物仕り候」(大正3年1月1日)、
「雨もよひの空なりしかど晩方神田邊の書店まで参り候ついで明治座を立見致し候」(3月9日)、
「歌舞伎座を見物致候」(3月28日)、
「風吹きて嵐模様の空なりしが午後より本郷座の初日へ出掛け申候」(5月2日)
荷風の芝居好きは、芝居好きだった母親恒の影響で、子どものころから始まっている。
明治エリート一家の子として育てられた荷風は、父親を通しての教養と、母親を通しての教養という二つの文化受容の回路を持っていた。
父親の教養が、明治国家の新しい要請に応えた実学であり、母親から受け継いだ教養は、古き良き江戸趣味の遊芸だった。
イギリスに留学し、近代的な国語学の基礎を築いた東京帝国大学教授上田萬年の娘円地文子が、父親よりも、母親・祖母を通して、江戸文化に近づき、歌舞伎に魅せられていった例もある。
表通りからは消えたかに見えた江戸文化は、母親という「家の奥」にいる女の手によって、ひそかに息子に伝えられた。
ここにも荷風の二重性がある。
随筆「監獄署の裏」(明治42年)に母親の思い出がある。
「(私の母は)江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で琴もよく弾きました。
三十歳を半ば越しても、六本の高調子で、吾妻八景の----松葉かんざし、うたすぢの、道の石ふみ、露ふみわけて、ふくむ矢立の、すみイだ河-----
と云ふ処なぞを、楽々歌ったものでした」
「私は忘れません、母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座なぞの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、冬の日の置炬燵で、母が買集めた彦三や田之助の錦絵を繰り広げ、過ぎ去った時代の藝術談を聞いた事」
「明治官僚の父親が家にいないとき、”家の奥”では、母親が息子に「過ぎ去った時代の藝術」を聞かせていた。そのひそかなさまは「密通」と呼んでも大仰ではないだろう。」(川本)
荷風にとっては、文学もまたこの母親を通して得られたもので、『荷風思出草』では、子どものころ、母親が小説好きで、広津柳浪や尾崎紅葉などの評判の小説をさかんに買ってきて、息子にも読ませたと語っている。
相磯凌霜の「そうすると詩人である(父親の)禾原先生の影響よりか、お母さんの影響のほうが多いというわけですね」との質問に、「母はぼくに讀めるものを買っていたもの。小説はその感化が多いですよ」と、母親の影響を語っている。
荷風の二重性を考えるうえで、母親の存在はきわめて大きいといわねばならない。
随筆「九月」(明治43年)。
荷風は、高等学校入学試験に失敗し、父親に怒られた自分をかばってくれたのはやさしい母親だったことを懐しく思い出している。
父親が「貴様見たやうな怠惰者は駄目だ、もう学問なぞはよしてしまへ」と荷風をなじる、それを母親が「なにも大学とかぎつた事はないでせう。高等商業か福澤さんの学校でもいゝぢやありませんか」とかばう。
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(その二)に続く
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