2012年2月14日火曜日

元慶2年(878) 元慶の乱(出羽の夷俘反乱)

横浜 東戸塚白旗神社(2012-025-12)
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元慶2年(878)
3月
畿内に班田を行う
半世紀の間、班田収授を中絶しており、政府の言によっても、
「去る天長五年(828)以来、五十箇年此の事(班田)行なわれず、ついに、無身の畢(死者)をしてなお田範(でんちゆう)を領し、見役の人(課役を負担する者)かつて潤益なからしむ、・・・」
という状況になっていた。
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元慶の乱(出羽の夷俘反乱)
この月、野代など秋田城付近の12の村々の俘囚(帰順蝦夷)が突然反乱。
秋田城、秋田郡家、民家などを焼き討ち。

原因は、続く凶作、出羽介兼秋田城司良岑近(よしみねのちかし)の苛政、院宮王臣家の使者による良馬の収奪など。
また、疲弊していたのは蝦夷だけでなく、公民の1/3までもが奥地に逃げ入ったという。

これに対して、政府は出羽国司に鎮圧を命じたが失敗し、陸奥国に援軍を要請した。

これまで、政府は、陸奥の蝦夷の征討と按撫に注力し、出羽は二の次になりがちで、その常備兵力も劣弱で、とうてい急場の役にはたたなかった。
基経は、貞観11年(869)から4年間、陸奥出羽按察使を兼任したことがあり、この地域について多少の施政上の経験あるいは知識は持っていたと思われる。

乱勃発後2ヶ月、政府は左中弁藤原保則(やすのり)を出羽権守に任じて征討にあたらせた。
保則は、桓武朝の右大臣継縄(つぐなわ)の曾孫で、辺境の吏務に携わったことはないが、備中・備前の国守として善政をうたわれた。
基経は、それを見込んで保則を採用した。

保則の任命前後、出羽の官兵は、いくども蝦夷にいためつけられていた。

5月上旬
政府の命令をうけて、陸奥国から押領使大掾(おうりようしのだいじよう)藤原梶長(かじなが)が兵2千を率い来援、秋田城の兵力は5千人に達した。

しかし1ヶ月後、夷俘の軍勢が大挙して秋田城を急襲。
城中の将士は戦意を失い退き、ひとり力戦して敗れたのは権掾文室有房(ふんやのありふさ)らだけであった。
城中の甲冑300領・米糒(ほしいい)700石・衾(ふすま、寝具)千粂・馬1,500疋など一切は攻囲軍に奪われてしまう。
梶長らの陸奥からの援兵もすべて逃亡してしまった。

あいつぐ敗報に責任を感じた大納言兼左近衛大将で陸奥出羽按察使であった源多(まさる、仁明の皇子)は、上表して按察使の解任を乞うたが許されなかった。

鎮圧軍大敗の報告は直ちに飛駅(早馬)で都へ届けられた。

保則は、基経に対して前左近衛将監(さきのさこのえのしようげん)小野春風(おののはるかぜ)の起用を要望した。
公卿たちは大きな衝撃をうけ、直ちに会議が開かれ、小野春風を鎮守府将軍に任命した。
彼は、陸奥権介の坂上好蔭(よしかげ)とともに、援兵を率いて戦場に赴いた。

春風は幼い頃から父で鎮守将軍であった小野石雄(いわお)に従って陸奥国で暮らし、「夷語」にも通じた豪快な人物で、単騎で蝦夷軍に入り、説得してまわったという。
一方の好蔭は、坂上田村麻呂の子孫で武勇に優れていた。

蝦夷軍は単なる寄せ集めではなく、指揮系統も確立した計画的な反乱であり、蝦夷たちは、秋田河(現在の雄物川)以北の独立を主張した。


秋田城下の12村は夷俘軍の支配にあり、僅か3村の俘囚だけが出羽国府に属していた。
反乱は、東方の陸奥、或いは北方の津軽に波及する恐れがあり、保則らは、津軽の諸集団の南下を憂慮していた。 


保則は、文室有房・上野押領使大掾南淵秋郷(みなみぶちのあきさと)らに命を下し、上野国から到着した兵600余をもって秋田河の南に布陣し、夷俘軍の出撃に備えた。
そして、出羽国側に残った3村の俘囚と良民300余をもって、敵を添河(そうのかわ)に防がせ、雄勝城へも兵力を配置した。

以上の軍事的措置を済ませたあと、保則は、雄勝・平鹿・山本の3郡の政府貯米を、郡内および3村の俘囚に支給して彼らを懐柔した。

6月末
保則は、夷俘との決戦に備え、常陸・武蔵両国の豪族・農民2千人の動員を朝廷に申しいれた。 


8月
津軽と渡島(わたりしま、北海道)の蝦夷たちが政府側に味方するようになり、反乱はしだいに鎮圧されていく。

この頃、津軽半島や渡島には、国家支配が及ばず、苛政の対象になっていなかったこと、蝦夷といえども一枚岩ではなく、国家に対してさまざまな感情を抱く部族に分かれていたことが影響した。

第一の理由は、保則が3村の俘囚らに示した寛政で、この情報が夷俘の集団から集団へと伝わり、彼らの敵意を和らげた。
出羽の夷俘は、秋田城司らの苛政をいきどおって蜂起したのであって、桓武朝の征討に対して抗争したかつての胆沢の蝦夷人諸集団ほどの結合はなかった。
後方の津軽の蝦夷との連絡はなく、津軽地域の諸集団は分立のままであった。

第二理由は、坂上好蔭・小野春風らの部隊は、武威を誇示して敵を脅やかし、また、身を挺して夷俘に近づいて帰順を促すなど様々な術策をもって夷俘に働きかけた。

879(元慶3)1月
朝廷は、保則に対して征討の強行を命じた。

保則は、これに対して、詳しく出羽の実状について延べ、国府側の兵力の致命的なまでの不足、軍需品の輸送の困難などを具体的に指摘して、征討が上策でないと強調。
そして、いま採るべき緊急の対策は、凶作と動乱に苦しむ農民に寛大の政をおこない、苛政を厭い奥地に逃げこんだ人々に還住を求め、常備部隊を改造して良質の兵力を整え、甲冑その他の武器を十分に蓄えて夷俘の動きに備えることにあるとした。

3月
政府は、保則の意見を容れ、勅を発して征夷の軍を解いた。

このようにして、出羽の夷俘の反乱は鎮静されてゆく。
保則らは敢えて武力による反撃を加えていない。
保則は、桓武の時代の坂上田村麻呂とは異なる国家権力の限界を明確に自覚して、懐柔策をとり、またその任期中に寛大の政を実施した。

出羽の現地の農民・俘囚あるいは夷衆の側からいえば、武装蜂起をもって秋田城司の苛政をくつがえし、降伏という形をとったにせよ、征討によらざる和平を実現し、いくぶんの寛政の実を得た訳で、まるまるの敗北ではなかった。
むしろ、出羽国府、その背後の中央に対して、夷俘の新しい力の存在を示すことに多大の成功を収めたといえる。

夷俘の首長たちとその後裔たちは、以降の東北の歴史の一つの推進力となってゆく。

元慶の乱以降、東北地方の歴史は、文献史料からは殆どわからなくなる。
その理由は、9世紀末までで正史(最後の六国史は延喜元年(901)完成の『日本三代実録』)がなくなること、貴族が地方政治に対する関心を急速に失っていったことである。

俘軍(服属蝦夷の軍)は、征夷や城柵造営においてしばしば国家側の武力として活動している。
これは蝦夷が部族集団ごとに活動し、相互に対立・抗争していることを利用したもので、「夷を以て夷を撃つは、古の上計なり」(『日本三代実録』元慶2年9月5日丁酉条)、あるいは「賊を以て賊を伐つは、軍国の利なり」(『日本後紀』弘仁2年(811)7月辛酉条)と言われたように優れた戦術と評価されていた。

元慶の乱が発生する頃、出羽国司が苛政を行っていたことは、正史である『日本三代実録』も認めており、反乱軍が藤原保則に提出した「愁状十余条」は、適切で道理にかなっていたという(元慶3年3月2日壬辰条)。

元慶の乱は、国司・王臣家の飽くなき収奪に対する抵抗という新しい形態の反乱であった。
国司・王臣家による交易は、公権力を背景とする略奪的交易であったが、蝦夷の中には自ら積極的に交易に関わって富裕化し、その地位を上昇させた者も存在したと考えられている。
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9月29日
相模・武蔵地震


夜、相模、武蔵で大地震。揺れは京に達する。5、6日揺れが収まらず。
公私の舎屋全滅。地面陥没。百姓の圧死多数。(「三代実録」34)

マグニチュード7.4と推測される。死者多数。京都でも揺れが感じられる。
相模国分寺では本尊など仏像が破損し、地震直後の火災で焼失してしまったという。
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