2012年2月2日木曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(14) 「十三 左團次との親交」(その一)

京都 島原(2012-01-25)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(14)
「十三 左團次との親交」(その一)
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二世市川左團次、俳号「松莚」、本名「高橋君」(高橋柴三)。

荷風は、左團次のブレーンのような存在。
二人でよく食事をし、食事をしながら左團次のための脚本の打合せをすることが多い。

左團次を囲む文人の集まり。
岡本綺堂、岡鬼太郎、小山内薫、吉井勇らが月1回集まり、左團次のための脚本の案を出しあう。

利倉幸一『市川左團次覚書』(建設社、昭和15年)によると、日本橋の料理屋での第1回の集まりの日が七草の日だったので、この会は「七草会」と名づけられた。
実際は、左團次を中心に気心の知れた演劇好きが集まって、酒を飲みながらうまいものを食べるという「極めて気楽な、呑気な集り」だったという。

荷風もこの七草会の一員となってしばしば、集まりに出席。

「七草會仲通の末廣に開かる」(大正11年1月7日)
「正午七草會例會」(同年11月9日)
「東仲通末廣にて、七草會例會あり」(同年12月14日)。

「末廣」は、日本橋槇町(現、八重洲口近く)にあった鳥料理屋。
七草会の集まりは、「末廣」はじめ、「築地酔仙亭」(大正12年5月14日)、「新大橋際平田といふ待合」(同年6月14日)、「築地二丁目の八百善」(大正14年3月18日)、「星ケ岡茶寮」(大正15年4月5日)、「下谷数寄屋町の旗亭新梶田家といふ家に赴く」(同年4月13日)とあり、会場は東京のうまいものどころが多い。

二世左團次は「團菊左」とうたわれた先代市川左團次の子。
明治13年生まれ(荷風より1歳年少)。
父親が容貌も声も美しい名優だったのに対し、子の左團次は歌舞伎役者としては端正な顔とはいえず、声もよくなかったので、若い頃は父親と比較されて苦労したという。

豊島屋主人『俳優評伝 左團次の巻』(玄文社、大正7年)。
左團次について。
「その役者は自分自身でも役者と云ふ職業を呪詛したほど其技芸は不器用であった。彼はいつも観客から罵られ、嘲笑され、同輩からは軽蔑されていた」
「父の存生中は殆ど暗黒時代であった。彼は世間から些しも認められていなかった」

左團次が俳優として認められるのは、明治37年に父が死に、39年に左團次を襲名してからだという。
二世左團次となってからは岡本綺堂作「修禅寺物語」はじめ「烏辺山心中」「番町皿屋敷」「鳴神」「河内山」など数多くの当り芸を持つ名優として大成していった。

荷風は帰朝後の明治42年、小山内薫の紹介で左團次に会い、人柄に惹かれ、急速に親しくなる。

大正3年、荷風が新橋の芸妓八重次と正式に結婚したとき、左團次夫妻が媒酌人になっている。
左團次夫人登美はもと下谷数寄屋町の芸妓。左團次の母親もまた柳橋の芸妓。

荷風の随筆「藝人讀本」(大正5年)。左讀次を絶讃。
「此に藝人にして更に藝人らしからぬ人今の世にたった一人あり。
世間の事に明く上下の人情に通じて思遣もあれば情もある人たつた一人あり。
品行方正なる事君子の如く、衣食奢らざる事三河武士の如き人たつた一人あり。
そも此を誰とかなす。松莚市川左團次即其人なり」

左團次は、明治39年~40年の約8ヶ月、フランス、イギリス、アメリカに演劇の勉強の旅をする。

『左團次藝談』(南光社、昭和11年)によれば、フランスやイギリスで観劇だけでなく、排優学校に通い、発声法や表情術を学んだという。
フランスではサラ・ベルナールに会う。
彼女が、「イギリスの芝居は稽古を六十日か七十日しかしないから荒削りだ。自分などは少なくとも百五十日位はする」といったのに驚き、60日か70日で荒削りなら短期間しか稽古しない日本の芝居はいったい何なのかと我が身を真剣に振り返える。

左團次は、歌舞伎の世界では革新的若者だった。帰国後、明治座で従来の芝居茶屋を通した興行をやめ、客はすべて入場券によって入場するという近代的な「革新興行」を打った。
この試みは、「役者のくせに洋行などした生意気者だ」という猛反発を受けて失敗するが、左團次は劇界の改革者として注目を浴びるようになる。

「左團次といえば『新味のある』と云ふことである」(豊島屋主人)。

帰朝後の明治42年、北欧やドイツの演劇事情を見て帰国した小山内薫と自由劇場をおこし、11月27、28日、有楽座でイプセン「ジョン・ガプリエル・ボルクマン」を上演。
日本で最初の本格的翻訳劇の上演。
演出は小山内薫、翻訳は森鴎外。

自由劇場は、明治43年5月の第2回公演ではベデキント作、森鴎外訳「出発前半時間」など、明治43年12月の第3回公演ではゴルキイ(ゴーリキー)作、小山内薫訳「夜の宿」など翻訳劇を次々に上演、日本の近代演劇(新劇)の基礎を作っていく。
その中心に歌舞伎役者市川左團次がいた。

荷風はこういう劇界の改革者、新興芸術の旗手と親交を結んだ。
荷風が編集に携わる「三田文学」明治45年4月号は、この年3月帝劇で上演された自由劇場第6公演台本、メーテルリンク作、小山内薫訳「タンタヂイの死」の脚本を掲載し、自由劇場の運動を支援する姿勢を示す。
イプセン、ベデキント、ゴーリキー、メーテルリンクは、当時としては新しい同時代の作家である。シェイクスピアやゲーテが古典だったとすれば、これらの作家は、真新しい「われらが同時代人」だった。

荷風は左團次の人と為りにも惹かれ、親交を深めていく。
「夜松莚君来訪」(大正7年1月25日)、
「松莚子宅にて玄文社懸賞脚本の選評をなす」(同年4月17日)、
「三十間堀春日にて昼餉をなし夕刻新富座欒屋に松莚子を訪ふ」(同年10月9日)

利倉幸一『市川左團次覚書』。
「恐らく後期の左團次の口より『親友』と呼んだ第一の人は永井荷風であったらう」とし、その一因として二人が「江戸っ子」だったことをあげている。
左團次は、築地に生まれ育っている。
荷風が山の手の子とすれば、左團次は歌舞伎と花街に彩られた下町の子。
荷風には下町=江戸文化への憧憬があり、左團次には、西欧遊学でわかるように山の手=西洋文明への憧憬がある。
この交差が二人を強く結びつけた。

村松梢風『現代作家伝』(新潮社、昭和28年)「永井荷風」の章。
「或時荷風は歌舞伎座の桟敷で見物してゐると、隣の桟敷へ歌右衛門が来た。
自然両者はもろもろの話を交した。
其の後で歌右衛門は左團次附の作者で支配人格の木村錦花に向つて『左團次は実にいい友達を持ったものだ』と羨しそうにいった」。

二人は、うまいものどころで歓談するだけではなく、ときには隅田川を越えて向島の百花園に遊ぶ。

大正14年5月27日
「松莚子芝居のけいこ休みなれば向嶋に遊ぶべしとて、午後より大伍子玩古堂等を誘ひ、百花園に往く。
この日朝より空くもりて小雨歇みてまた降る。されど傘さすほどにもあらず。
園中人なく、梅は既に枯死し、池水は淘り、見渡すかぎり夏草生茂りしさま曠野の如くにて、寂寥卻て愛すべし。園中唯はこねうつ木の一樹花ひらくを見るのみ。
園主出で来り楽焼の茶碗に句を請ふ。己むことを得ず、秋草やむかしの人の足の跡とかきて輿ふ。
薄暮土手を歩み雲水に飯す。乗合白働車にて吾妻橋に至る。銀座に出で更に茶を喫して家に帰る」

大正15年3月4日
「松莚子到来の白魚を馳走すべしとて電話にて招かる」

大正15年5月28日
「松莚子墨堤三圍稲荷長命寺あたりの境内に残れる古碑の中にて、若し購ひ得べきものあらば、駿台新居の庭に移し立てんとの意あり。
此日午後より墨陀の古碑を捜り歩むべしとて、細君及杉本竹田の二商を随へ、先予が家に来り訪はる。
予朝来微恙ありしが、倶に筇(さお)を長塘に曳き、百花園に憩ふ。
芍薬、うつ木、野薔薇の花今を盛りと咲き乱れたり。園主その祖麹塢(きくう)が自画像に文晁抱一の題句せし一軸、蜀山人題歌蠣潭画紅梅一幅。鵬齋の尺簡其他を示す。
晡時去って日本橋檜物町の某亭に上り、晩餐をなす。此日室曇り溽暑甚し」
(その二)に続く
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