2012年2月1日水曜日

天安2年(858) 文徳天皇(32)没。 清和天皇(9、良房の外孫)即位。

東京 江戸城富士見櫓(2012-01-12)
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天安2年(858)
5月23日
・平安京に大雨、洪水。冷然院浸水。
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5月29日
・水害被災者に賑給。
穀倉院の殻2千斛・民廩院の米500斛・大膳職の塩25斛をこれにあてる。
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6月
・円珍が帰朝。
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6月7日
・和泉国で地震。官舎60余・民家30家余を損傷。
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8月27日
文徳天皇(32)、没。
皇太子惟仁(9歳)が直ちに践祚。
この時点で、惟喬親王は15歳。
文徳は、その晩年、まず惟喬親王を即位させ、いずれ惟仁に譲位させるという案に執着したといわれる(『吏部王記』逸文)。"
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11月7日
清和天皇、即位。母・藤原明子(良房の娘)、皇太夫人となる。

大化改新から19代の天皇を数えるが、10歳以下の幼帝はない。
年少天皇の唯一の例は、15歳の文武天皇であるが、この時は祖母の持統上皇が後見として、共治のような形態をとった。
幼帝清和については、立太子の時から世上の不評がつきまつわっていた。
良房が、異母の惟喬親王ら三兄を押し退けて清和を文徳の後嗣に据えた。
宮廷内外の人々はそれを嫌悪し、京の巷には、このことを諷する謡(うた)がひろまっていた。
良房の専横を憎む世人の感情も混じっていた。
兄を超えて皇嗣となったことは、後年の清和天皇を悩ませる心の古傷となった。

明らかに統治能力を備えていない幼帝の出現に対して、批判的空気があった様子が、陵墓への即位報告の状況から窺える。

陵墓への即位報告は、弘仁14年(823)4月、淳和即位に先立つ柏原陵(父桓武)への奉幣が最初。

次の天長10年(833)の仁明即位の際には、柏原陵に加えて桓武皇后の藤原乙牟漏(父の母)陵(長岡陵)が加わる。このとき、仁明の父の嵯峨は存命。
次の文徳即位の際は、その父仁明の深草陵のみに奉幣。

今回の清和即位に先立つ奉幣では、その対象が一気に増え、山階陵(天智)、柏原陵(桓武)、嵯峨陵(嵯峨)、深草陵(仁明)、真原陵(文徳)、愛宕(おたぎ)墓となる。
愛宕墓は、嵯峨の娘で藤原良房に嫁した源潔姫(きよひめ)の墓で、彼女と良房との間に明子が生まれ、明子と文徳との間に清和が生まれている。
潔姫は清和の外祖母である。良房が、自分の妻で新天皇の祖母を対象に入れた。

即位を報告する陵墓が一気に増えたのは、兄の惟喬親王らをさしおいて9歳の惟仁を即位させることに対する批判を意識した対応であった。
たとえ幼帝でも祖先に正統と認められるならば、立派に帝王たりうるのであり、統治能力の如何は第二義的なものに過ぎない、ということが明示された。

良房は、清和即位から清和元服(貞観6年)まで、後の摂政に当たる役目を果たしていた
(政務処理の面で天皇の権能を代行していた)。

『公卿補任』(職員録)には、清和即位の11月7日に良房が摂政になったとあるが、この即位の日のことを記した『三代実録』には、良房の処遇に変化があったとの記述はない。『公卿補任』は、後世の幼帝即位の事例を遡らせて記したものと見られる。

清和天皇が陽成天皇に譲位するときの宣命で、基経に対し、「少主(陽成)の未だ万機を親しくせざるの間は、政を摂り事を行わんこと、近く忠仁公(良房)の朕が身を保佐するがごとく、相扶け仕えまつるべし」(『三代実録』貞観18年11月29日条)としている。
延長8年(930)10月19日に藤原忠平が摂政を辞退しようとした時の上表文にも、「貞観初めの忠仁公、元慶の間の昭宣公(基経)、幼主を保(まも)り輔け、政事を摂行す」(『本朝文粋』巻4)とある。

良房は、清和の東宮時代に姪の高子(たかいこ)をこれにめあわしている。
高子は、長良の娘で、良房の養嗣子基経の妹、清和の9歳年長であった。
また、彼女は東宮に嫁するまえに、在原業平との情事が宮廷人の間で評判になっていた。
明子以外に娘をもたぬ良房にとっては、第二の外戚関係をつくるためのかけがえのない切り札であった。
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11月25日
・中宮職を改め皇太后宮職とする。
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12月9日
・十陵四墓を定める。
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