横浜 東戸塚 白旗神社(2012-02-24)
*仁和4年(888)
5月8日
・千曲川大洪水。
「信濃国大水、山頽(くず)れ河溢(あふ)る」(『日本紀略』仁和4年5月8日条)。
「今月八日、信濃国、山頽れ河溢れ、六郡を唐突す。城廬(じようろ)、地を払いて流漂し、戸口、波に随いて没溺(ぼつでき)す。百姓何の辜(つみ)ありてか、頻りに比の禍に罹(かか)るならん。」(『類聚三代格』巻17仁和4年5月28日詔)。
長野県更埴市の集落遺跡である屋代遺跡の場合。
ここでは、弥生時代には河川の自然堤防上に集落が営まれ、その自然堤防の背後にできた湿地で、水田開発が進められた。
8世紀末、集落の範囲が拡がり始め、9世紀後半には条里区画も完成。
この条里施工ののち間もなく、千曲川が大洪水。
ここは、7世紀後半から大洪水までに5面も水田面が検出され、、数度の洪水に見舞われながらも、速やかに復旧作業が行われているのが確認できる。
しかし、9世紀後半のこの大洪水の後は、しばらく復旧作業を見合わせてしまった。
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7月23日
・藤原保則(やすのり)の解状(げじよう)に基づく官符(『類聚三代格』巻5仁和4年7月23日)。
未進の責任を巡る長い試行錯誤に決着を付ける第一歩。
この法令では、累積した未進については取りあえず棚上げにし、その代わりに自分の任期中の未進だけはゼロにしておかないと、太政官は解由(げゆ、後任が前任に出す、交替事務完了の証明書)を受理しないことにする。
解由が受理されなければ交替は完了せず、従って次の官職にも移れない。
この官符以前の制度では、未進は国の責任で補填するものであり、交替者がいる場合には、交替していった者の同僚のうちまだ在任している者と後任の者とが補填する義務を負うことになっていた。
仁和4年の官符では、調庸の納入と解由とをリンクさせ、国司個人の交替審査と直結させた。
調庸が京に納められていない以上、納められるべき調庸物は、国司・郡司の手許にあるか、あるいは彼らの怠慢によってまだ公民から取り立てていないかである。どちらにせよ国内にあるはずだから、未進になっている調庸をも、解由が本来対象としていた留国官物(各国の資産)と同様に見なした。
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8月
・仁和寺を創建。
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9月
・宇多天皇は、廷臣たちに「弘仁以後の鴻儒(こうじゆ、大儒者)の詩に堪えるもの」を選ばせ、当代一流の画師巨勢金岡(こせのかなおか)に命じて、宮中の居所の南簷(なんたん)の東西障子にそれら親政三代以後の人物像を描かせる。
この宇多の精神の延長上に、橘広相を重んじ、ついで清和朝後期の参議故菅原是善(これよし)の三男道真を起用する、宇多の行動がある。
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10月
・基経の女で更衣であった温子(おんし)が女御の地位につく。
阿衡の紛議が収まったことの王朝的表現。
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10月17日
・右大臣源多(まさる)、歿。
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11月
・宇多天皇主導による蔵人所の充実
宇多朝以前には、六位以下の官人が蔵人に任命され、五位になると蔵人を辞めることになっていたが、この年、六位の蔵人の定員から2人を割いて五位の蔵人の定員として、初めて五位蔵人が任命される。
蔵人所の格上げ。
ついで寛平2年(890)、橘広相に命じて『蔵人式』を編纂させる。
蔵人たちは、特に寛平~延喜年間に充実され、宮中の種々の「所」(進物所(しんもつどころ)・御書所(ごしよどころ)・納殿(おさめどの)・滝口など)を分掌・統括して運営するなど、天皇の秘書官として確立していく。
寛平9年(897)7月、醍醐の即位に際して四位クラスの蔵人頭2人の上に、左右大臣または大納言を任ずる別当1人をおき、その初代には時平がなる。
天皇側近としての蔵人の政治的な面での伸張が停められてしまう。
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