東京 北の丸公園(2012-02-03)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(15)
「十三 左團次との親交」(その二)
左團次は関東大震災で神田北用賀町の家(現在の御茶ノ水駅近く、日大駿河台病院あたり)を焼かれたあと麻布宮村町に仮り住まいし、大正15年秋に神田駿河台の坂上に新築しそこに移る。
大正15年10月18日
荷風は、新居に招かれる。
「日乗」には、新居の様子が克明に描写されている。
門前の西北にニコライ堂の見える二階家の客間の床には蜀山人の画が掛けられ、庭には辛夷(こぶし)や椿のあいだに石燈寵が三脚置かれている。
昭和7年5月11日
左團次宅で蜀山忌。
「正午杏花子に招かれて其邸に往く。川尻清潭子も亦招かる。此日蜀萄山人の忌日なればとて主人は清酌庶羞(ショシュウ)を古人画像の前に供へたり。三時過主人は明治座に出勤する時刻なればとて出で行きたれば、余は清潭子と共に銀座を歩み酒なが肆泰平に憩ひ、日の暮るゝを待ち晩餐を共にしてわかれたり。此日杏花子竹筆一管を恵贈せらる。豫州道後の名産なりと云ふ」
古名優の錦絵。広重の名所絵。歌麿及び北斎の美人画。其角、一茶、抱一などの直筆物。その他、更紗、袱紗、人形、古本、箱。大田蜀山人に心酔し、山人愛用の衣服と酒の道具まで揃え、蜀山忌には鰹魚を供えるという凝りよう。石碑蒐集にも熱心。古本集めも好き。
川尻清潭によれば、こうした左團次の蒐集癖のうち、浮世絵、古本、古裂、蜀山物は荷風の感化影響という。
左團次は、莚升と名乗っていた20代の頃(明治34年頃)、まだ珍しかった自転車に熱中。
木村錦花『明治座物語』(歌舞伎出版部、昭和3年)で、「莚升が菖蒲革の袴に、元禄羽織、藺笠(イカサ)を冠って、新富町の自宅から明治座へ(自転車に乗って)通ふので、鎧橋通りを疾走して行く姿は、異彩を放ったものでした」と回想。
また、大正末年にはもう自家用車に乗っている。
「日乗」にも、左團次の車に乗せてもらったことがしばしば記されている。
大正15年4月13日
「歌舞伎座欒屋に松莚子を訪ひ、其の自働車にて松莚錦花の二子と、下谷数寄屋町の旗亭新梶田家といふ家に赴く」。
昭和2年5月29日
「快晴、松莚大伍英児の三子と風月堂に晩餐を食す、松莚子の自働車にて日比谷公園より青山新公園を一週し、芝公園を経て銀座に出でゝ別れ・・・」。
カメラを持つのも早い。
アメリカに行ったときに手札型巻フィルム12枚の暗箱写真機を買って、日本に持ち帰った。
荷風はこの影響でのちにカメラに凝るようになる。
蜀山人からカメラまで、左團次と荷風の親交は深い。
『左團次藝談』
江戸歌舞伎を大成した歌舞伎脚本家河竹黙阿弥は先代左團次を可愛がり、その成長に力あった。
その縁で左團次は晩年の黙阿弥と親交があり、その長女お糸さんとも親しく往き来をしていた。
お糸さんが、翁没後、養子婿を探しているという話が、慶應教授の荷風に伝わり、荷風は乗り気になる。
左團次に「河竹家ならば襲(ツ)いでもよいから話をしてくれ」と頼む。
しかし、左團次がこの話をお糸さんにすると、彼女は丁重に断ったという。荷風の派手な女性関係を知っていたのか。
河竹家は、早大教授で演劇博物館館長になる河竹繁俊があとを継ぐことになる。
左團次の新しい試み(「革新興行」)。
自由劇場の他に、
①大正11年10月の京都知恩院での大野外劇、
②昭和3年のソ連での歌舞伎興行。
大正11年10月、京都知恩院での野外劇。
「平生、芝居を観ることの出来ぬ人達に、出来るだけ安く芝居を観せたい」との左團次の考えから生まれた。知恩院山門前で行なわれ、入場料は無料。演しものは「織田信長」。演出は小山内薫。荷風も顧問のような形で参加、旅嫌いではあるが珍しく京都まで出かける。
大正11年10月1日
「午後知恩院楼門にて屋外劇の催あり。劇は松葉子の作信長なり。観客数萬人に及び演技は雑踏のため中止の己むなきに至らむとせしが、辛じて定刻に終るを得たり。此夕大谷竹次郎俳優文人一同を祀園の万亭に招き盛宴を張る」
記述があっさりとしているのは、10万人もの観客が押しかけて大混乱になってしまい、静けさを好む荷風が嫌気がさしたのかもしれない。
一方、左團次は大得意。
「私の信長が山門の上に立って、十万の人々を控え、京の町を霞の果てまでも見渡して、台詞を云っている時は、まことに、正直のところ、私一代忘れえぬ快さのきわみであった」
昭和3年、ソ連興行。
ソ連政府の招きによる「芸術大使」。初めての歌舞伎の海外公演。
左團次は、このソ連行きは「日本演劇史上、燦然として光輝ある一節」「世界進出の第一歩」という。
演しものは「御目見得だんまり」「修禅寺物語 三場」「鷺娘」「鳥辺山心中 二場」「仮名手本忠臣蔵」「娘道成寺」「御存知幡随院長兵衛 鈴ヶ森の場」「番町皿屋敷」「鳴神」「操三番叟」で、これを三つのプログラムにわけて上演。
モスクワ市民は、「カブキ」「サダンジ」を歓迎し、公演は大成功。
観客席から左團次に「タカシマヤ」と掛け声がかかるほど。
左團次は、「戦艦ポチョムキン」を見て、エイゼンシュタインと会見もしている。
新聞は、
「出物は『だんまり』『忠臣蔵』『所作事蛇踊』で何れも大喝采を博し殊に左團次が最初に舞台に現れるや拍手は暫時鳴り止まず怖ろしい人気であった」(「国民新聞」昭和3年8月4日)、
「ロシヤ側の多くのひいき連は果して日本歌舞伎がロシヤで成功するかどうかにつき少からず疑念を懐いて居たが初日の景気で其疑念が全く一掃された。最初の出し物忠臣蔵は省略して演出されたが幕開きから打出まで驚異と賞讃の声は場内に充ち満ちて居た。この劇は公衆に多大な感銘を輿へたが特に七段目の愁歎場の幕が観客に甚大の感動を與えた」(「東京朝日新聞」8月3日)、
「モスクワにおける左團次一行の歌舞伎劇は初日以来ますます人気沸騰し来り連日満員の盛況」「今や『カブキ』といふ言葉は急に一般化してロシヤ語として通用するに至つた感あり、『サダンジ』の言葉は人気の合言葉」(「大阪朝日新聞」8月7日)
とモスクワでの人気を伝える(『市川左團次歌舞伎紀行』平凡社、昭和4年)。
右翼・壮士らはこれに反対。
昭和3年6月26日の「日乗」。
左團次一座のソ連興行を経済的に支援した松竹(ソ連興行の団長は、松竹副社長城戸四郎)に対し、「無頼漢の一團」や「暴力團」がしばしば恫喝を加えている事実を明らかにしている。
そして、こうした「無頼漢の一團」や「暴力團」に対して、なんら適切な処置をとろうとしない警察や、沈黙を決めこんでいる新聞社に対して、強い批判を加える。
都市隠棲者を装う荷風が、激しく権力批判を行う。
「日乗」のなかで、もっとも荷風の反権力意識が生ま生ましく表明されている箇所。
「この事につきて警視庁をはじめ錦町警察署及新聞社等の様子を見るに、
暴力團の巨魁とは隠然聯絡あり、新聞紙は黙然として何等の言論をもなさず、
警察署は徒に刑事を派遣して無用の質問をなすのみにして、悪人に対しては一向取締をなすべき様子もなしと云、
名を忠君愛国に借りて掠奪を専業となす結社今の世には甚多し、
而して其巨魁〔此間約十二字抹消〕を目して憂国の志士となすもの亦世間に尠からず、
今の世は實に乱世と云ふべし」
荷風の隠れた硬派精神、国家権力に対する秘めたる反骨精神を見る。
荷風が、大逆事件を同時代の重大事と受けとめた作家であり、自らの書「ふらんす物語」を国家権力によって発禁処分にあった作家であることは、繰返し思い出されなければならない重要な一点である。
この日(6月26日)の記述には、「抹消」が4ヶ所。
左團次は、昭和3年7月12日、東京駅発。
敦賀まで行き、そこから海路ウラジオストク(浦塩)に向かう行程。
「日乗」
「朝九時過東京駅停車場に往く、松莚子夫妻は精養軒二階の一室に在り、護衛の壮上十四五名多くは安洋服にて一隅にひかへたり、昨夜駿河台にて見たりし者二名は松莚君の身邊に椅子を引寄せて鉄扇らしさものを持ちたり、廊下より乗車場のあたりには巡査刑事等多し」
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(註)
平山蘆江『東京おぼえ帳』(住吉書店、昭和27年)
左團次の大正から昭和にかけての人気について。
「当時の東京子は此人のことを左団次といはず殊更にその本姓によって高橋君とも高橋とも愛称した、高橋自身も進んで知識人の間に交はりを求めたり、江戸風を離れて東京風の生活をしたり、とりわけ浮世絵の蒐集家としても、随一と呼ばれ、当代一の写楽通とさへいはれたりしたものだ、正に大正時代の新智識人高橋君は大正東京の人気者であったらう、父以来、歌舞伎役者の畑に育ちながら、父と共に歌舞伎畑の変り種であったし、別格の存在でもあった」
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