2012年2月13日月曜日

貞観18年(876)~貞観19年/元慶元年(877) 清和天皇(27)譲位。 皇太子貞明(陽成天皇)親王(9)践祚。

東京 北の丸公園(2012-02-03)
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貞観18年(876)
3月9日
・平戸あたりから五島列島にかけての部分を肥前国から独立させ、値嘉島(ちかのしま)という行政区画を新設し、現地の人ではない島司(とうじ)を置く。
郡司の恣意的な収奪を停止し、この一帯が新羅の海賊や唐人の交易活動の一拠点となっている状態を改善するための措置である(『三代実録』貞観18年3月9日条)。
のちに、この辺りが倭冠の根拠地となったことを考えると、外国勢力と住民との交渉を監視する体制の強化も、目的の一つに挙げられる。
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4月
・大極殿焼失
猛火は小安殿、蒼竜・白虎の両楼、延休堂にもひろがり、数日その火勢はおとろえなかった。
朝廷では、左・右近衛、左・右兵衛などの勇敢な者を選び、官馬を提供して毎夜京中を巡行させ、非常の変に備えた。
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11月29日
清和天皇(27)譲位。
同日、皇太子貞明(さだあきら、陽成天皇)親王(9)が践祚。
幼帝陽成を擁する摂政基経の時代が始まる。

良房・基経の執政時代(前期摂関政治)に、続いて2人の9歳の天皇が出現した。

清和天皇は、その譲位の詔で、退位の理由を、自らの病いと災異の頻出をあげている。
そして、右大臣基経(幼帝の外伯父、良房の養嗣子)に摂政となるように命じる。

「内外の政を取り持ちて勤仕(つか)え奉ること夙夜(しゆくや)懈(おこた)らず、また皇太子の舅氏(きゆうし)なり、その情操をみるに、幼主を寄託すべし」
といい、
彼に対して、忠仁公(良房)の故事のごとく天子の政を摂行(せつこう)すべきことを命じている。

清和と基経との談合によって、良房の先例に基づき、幼帝の即位と人臣の摂政が慣行化への第一歩を踏み出した。
清和の場合は文徳が若死にしたために幼帝出現となったが、今回は基経の摂政をあてにして清和が退位した。
清和の詔が示すように、藤原氏の家で薫陶をうけたこの天皇は、すっかり基経によりかかっている。左大臣融(とおる)らの嵯峨源氏は、この王座における帝王と権臣とのなれあいを苦々しく感じていた。

陽成天皇の母は、藤原長良(ながら)の娘で基経の実の姉妹にあたる高子(たかいこ)であって、血統的には申し分ない。
しかし、陽成には、宮中で自分の乳母の子(紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ))を殴り殺したという噂があり(『三代実録』元慶7年(883)11月10日条)、譲位させられてからも暴行事件の容疑者になったりしている。

歴史上初めて上皇と摂政が併存することになった。
清和上皇は母藤原明子(良房の娘)が所有する別荘に隣接する御所、清和院に住み、出家後は諸寺を巡幸したり、断食修行に没頭したりした。

良房・基経という外戚(母方の親戚)の力はたいへん強く、清和上皇も陽成天皇も殆ど政治を執ることはできなかった。
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貞観19年/元慶元年(877)
1月
・陽成天皇、即位。
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1月15日
・菅原道真(33)、式部少輔(しきぶしょうふ)に任じられる。
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4月16日
・元慶に改元。
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10月18日
・菅原道真文章博士を兼ねる。
文章博士の定員は当時2人で、1人は都良香であった。
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