横浜 東戸塚 白旗神社(2012-02-12)
*仁和3年(887)
8月22日
・太政大臣藤原基経たち公卿が光孝天皇に皇太子を立てることを請う。
光孝の健康状態がかなり悪化していたと考えられる。
天変地異の恐怖のなかで、老天皇は次第に気力を失い危篤に陥る。
光孝は、太政大臣基経を憚り、死期に臨んだ日にもまだ皇嗣を決めずにいた。
光孝は特定の人をあげなかったが、第七皇子源定省(さだみ)を密かに望んでいるらしいと察知して、基経はこれを推戴することに決め、廟議にかけた。
定省は臣籍に降下していたことが、先例が無いこともあり問題になるかも知れない。
先に光孝擁立の際、源融が自薦したところ、先例なしを理由にそれを退けたことがある。
しかし、融は、源定省推挙の時に左大臣として廟議に列していたが、ことさらにはことを荒らだてなかったようである。
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8月25日
・源定省(さだみ、21、後の字多天皇)を皇太子にすることに決し親王に復位、翌日立太子、ついで践祚。
直後に光孝天皇は没する。
基経は必ずしも源定省を気に入ってはいなかったが、基経の妹で当時後宮に大きな勢力を持っていた尚侍(ないしのかみ)藤原淑子(よしこ)が熱心に定省を推したので、これに従ったと言われている。
皇位についた宇多が、ある日、陽成院(廃帝後の居所)のそばを通ったところ、廃帝は憤懣の感情をこめて、「当代(宇多)は家人にあらずや」と側近にたいして嘲罵したという。
陽成在位の時代に、源走省は殿上人として奉仕しており、神社行幸にさいしては舞いを命じられたことがある。
陽成上皇から嘲られたが、少年期の終わり天皇家の「家人」として境遇で過ごし、そこでいくらか基経執政の内情に触れてきたことは、字多にとっては天皇としての強みであった。
また、老父光孝の親政への執念も知っていた筈である。
『三代実録』の記事が光孝天皇没の仁和3年8月条で途絶えてから、貴族の日記が出てくるまでの9世紀末~10世紀前半は、詳しい年代記に欠ける史料の空白時代である。
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11月
・阿衡の紛議
宇多天皇の治世に当たり、太政大臣基経は先に光孝天皇から与えられた事実上の関白の地位は一旦消滅したものと考えた。
宇多は、11月の即位式直後、勅書を基経に与えて切に教導を要望し、重ねて参議左大弁橘広相の起草した詔を基経に下した。
「それ万機の巨細、百官已(すで)に総(す)べ、みな太政大臣に関白し、然る後に奏下、一に旧事のごとく、主者施行せよ」というもので、「関白」がこの詔書で初めて用いられた。
だが、関白の職権そのものは先帝の時代からの最高執政の慣行であり、それの継続にあたって、その実態がより明確にされたまでのことであった。
閏11月26日
基経は、これに対し紀長谷雄の筆になる辞表を差し出した。
この辞意は、当時の高級官僚の礼に従ったもので、再三推譲のあとにその官職につくことが予想されているものである。
翌27日
天皇は、橘広相に命じて勅答を作らせ、これを基経に与えた。
それはさきの詔書の趣旨を一層懇切に敷衍し、強調したものであった。
ただそこに「宜しく阿衡(あこう)之佐(たすけ)を以て卿の任と為べし」という新しい文言があったために、事態が紛糾した。
「阿衡」は、股の時代の名相伊尹(いいん)が任じられた官と伝えられているが、具体的な職掌は明確でない。
任官命令は、諸葛孔明の例のごとく、三度は辞退するのが礼とされており、その辞退はもちろん認められるものではない。
宇多天皇の側としては、最初の命令を撒回して名誉職に任じたつもりではなかった。
関白は、光孝天皇が考え出した特殊な任務であるが、基経は関白に執着したようで、ここで関白を制度的に確立しておこうとした。
もし、「阿衡」を引き受けると、単なる名誉職に追い込まれる可能性もありえる。
また、自分の権威を新天皇に見せつけておこうという腹もあった。
更に、「阿衡」の勅命を起草した橘広相に対する反感もあった。
広相は、宇多の近臣であり、参議左大弁で、文人貴族の代表である。
その娘義子(ぎし)は、源定省時代の宇多と結婚しており、義子と宇多との間には、既に斉中(ときなか)・斉世(ときよ)の2人の皇子がいた。天皇の長子維城親王(後、敦仁親王、醍醐天皇)は藤原高藤の娘が産んでおり、この時点では基経は外戚ではなかったので、基経に万一のことがあれば、広相が天皇の外戚になることも十分に予想された。
また、宇多は広相を「学士」(翰林学士)と呼んでいた。
翰林学土は、中国では皇帝の諮問に与る直属の官職で、宇多は、広相に翰林学士を重ね合わせ、藤原氏に対抗しようとしていた。
また、学者同士の反目がこれに絡む。
9世紀には唐風文化に基づいて、中国に対する知識が豊富で漢詩文をうまく作れる人物が重用された。
これら「文人貴族」の多くは派閥を形成し、互い牽制しあっていた。
藤原氏に近いのが藤原佐世(すけよ)・三善清行(みよしのきよつら)らで、宇多天皇に近侍したのが橘広相・菅原道真らである。
広相を追い落とそうとする三善清行らは、基経の不安を煽り立てた。
紀伝博士の藤原佐世(すけよ)は、基経に対し、「阿衝は位貴きも職掌なし、依りて公は摂政を停められしものと解すべきではないか」と説き、基経は佐世の説をうけいれ、それ以後、朝政をすてて顧みなかった。
年を越えても阿衡を巡る天皇と太政大臣基経の確執は解けず、国政は渋滞した。
仁和4年4月
左大臣源融はこの間題に介入し、博士善淵愛成(よしぶちのちかなり)、大学の助教中原月雄らに依嘱して、阿衡がはたして職掌がないかを考究させた。
かれらの結論は佐世の解釈とほぼ同様であった。
広相は、これに反駁する一文を朝廷にさしだした。
朝廷が、藤原佐世・三善清行・紀長谷雄らに、これについての所見を求めると、彼らは広相の説をしりぞけた。
阿衡の紛議は泥仕合の醜状を呈してきた。
藤原佐世は、基経の家司(いえづかさ)をつとめたことがあった。
藤原氏のなかでは数すくない儒臣で、氏長者としての基経はつねに目をかけていた。立身欲につかれた佐世には、同じ儒臣である橘広相が参議にまでのぼり、その女義子(ぎし)が天皇の女御になり、二人の皇子をもうけていることが妬ましいかぎりであった。
彼はこの点にふれて基経の猜疑をあおったのであろう。
儒臣の学閥争いが政争に絡んでいる。
宇多天皇は難局の打開に窮し、広相・佐世を殿上に招致して対論させたりもしたが、ことここにいたっては解決がつくはずもなかった。
基経はがんとして態度をかえなかった。
広相は、「阿衡」は三公に当たることを認め、その上で、三公に職が無いのは、周の時代の話であって、後代の三公の職は、統べないところがない、という論理で論駁しようとしていた(『宇多天皇日記』仁和4年6月5日条)。
しかし、唐の三師三公を引き合いに出して太政大臣に職掌なし、という結論が引き出されたばかりであり、「阿衡」が三公に当たるとすると、「阿衡」に職掌無し、ということになる。
宇多も認めてるように、広相の文章は華麗に走りすぎ、いたずらに「阿衡」の語を引いたばかりに、つけいる隙を与えてしまった(『宇多天皇日記』仁和4年9月10日条)。
有力文人である藤原佐世(すけよ)も広相の論には矛盾があるとして基経の姿勢に理解を示した。
基経が関白の地位を確立し、且つ広相を追い落とすことを目的としていた以上、「何が問題なのか分からない」という守勢に立つ広相は、結局は不適切な表現であったと詫びざるをえなくなった。
天皇は阿衡の言葉の失当を認める宣命をくだして、基経の圧力に屈服せざるをえなかった。
朝廷は、阿衡の紛争にほぼ半年を空費した。
もともと天皇には、正面から基経とことをかまえる腹は全然なく、また二人の不和につけこんでなにごとかを策する勢力もなかった。
他方、基経も、天皇に対して嫌がらせをしているだけで、それで即位したばかりの字多の出鼻をくじくことができれば、まずしめたものだくらいの思惑であった。
天皇の屈服によって広相もまたこの論争から手をひかねばならなかった。
事件の結果、宇多は心ならずも広相の非を認め、基経を新たに関白とし、基経の娘である温子(おんし)を入内させることで事態の収拾をはかった。
宇多の治世は、基経への屈服という屈辱的なかたちで開始される。
都を逐われ讃岐守にあった学界の旗頭菅原道真は、いたたまれずに上京し、この論争の不毛性を基経に訴える。
広相も藤原佐世も道真の父是善の門人であり、また佐世には道真の娘が嫁いでいるという関係なので、仲裁に出た。
しかし道真も、かつて三公には職掌無しと奉答しており、論理的に広相を庇うことは出来ない。
10余年後、右大臣にまで昇った道真は、大宰府に左遷されるが、その時の藤原時平側の不安材料の中には、道真の地位だけではなく、娘を宇多天皇の後宮に入れたり、宇多と広相の娘義子との間に生まれた斉世親王に嫁がせたりする道真の姿勢にもあった。
外戚の地位に就く可能性を求めた点では、道真は広相の轍を踏んだことになる。
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11月17日
・定省親王が即位し、第59代天皇・宇多天皇となる。
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