京都 東寺(2012-01-25)
*貞観8年(866)
閏3月
・応天門の変
太政大臣良房の第に花見の10日後の夜、内裏の朝堂院真南の応天門が炎上。
火はその東西にたつ棲鳳(せいほう)・翔鷲(しようらん)の両楼に燃え広がり、全て灰燼に帰す。
誰の仕業か分らず、朝廷の要人たちは、火難の続出を恐れ、五畿七道の諸神に加護を乞い、京内の東・西両寺をはじめ各地の寺で仁王般若経を転読させた。
政府は、山城・若狭の両国では兵事を厳戒し、西辺の諸国に対しても警告を発し、摂津・和泉・播磨・備前・備後・安芸・周防・長門と南海道(四国)諸国に対して、瀬戸内海を横行する海賊を追捕すべきことを下知。
太政大臣良房(63)らにとって、応天門炎上は治安の乱れ、世上の不穏を意味した。
応天門炎上の直後、朝廷の混乱につけこんで、大納言伴善男(とものよしお、56歳)は、右大臣良相(50)に対して応天門の失火は左大臣源信(みなもとのまこと、57歳、嵯峨源氏筆頭)の所為であると告げ、善処をもとめた。
良相は参議基経を招き、左大臣源信の逮捕を命じた。
基経は、使者を染殿第に派して、この頃自宅に引きこもりがちの養父良房にこれを報告。
良房はこの事態に驚き、清和天皇(17)の許に人を送り左大臣の無実を主張させた。
天皇は、その諌言に従い左大臣を追及しなかった。
良房は、このことで嵯峨源氏に恩を売りつけた。
■大納言伴善男
藤原種継を暗殺した大伴継人(つぐひと)の孫。
継人は獄死したが、佐渡国に流されたそのそ子の国道(くにみち)は、聡明で学才に富み、佐渡国では国司の相談にものり、信用を高めた。
その後、恩赦で都に帰り、官に復し参議になる。
善男はその五男。淳和天皇の名が大伴なので、大伴氏は伴に改姓。
風貌は、眼深く窪み、髭を長く垂れ、短軀にして痩せ細り、見るからに黠児(かつじ、悪がしこい男)の印象を人々に与えたと云われる。
性格は酷薄で、弁舌にさえ、判断に機敏で、政務のすべてに深く通じていた。
若年にして仁明天皇の知遇を受け、大内記から諸官を歴任し僅か8年で参議に列し、ながく中宮(順子)大夫をつとめ、多くの国の長官を兼任した。
彼の論難をうけて退官を余儀なくされた者に参議正躬(まさみ)王らがいた。
また、承和13年(846)の法隆寺僧善愷(ぜんがい)の訴訟事件の際、法匪と誹られても文句の言えないような強引さで、同僚の弁官連中を罷免に陥れたこともある。
こういう前歴は、他人を陥れることが得意という評価を産むし、早い内に芽を摘んでおいた方がよいという警戒心も懐かせ。
また、伴(旧大伴)氏としては、天平初年の旅人以来の大納言の地位に就いている。
貞観の初め、善男は左大臣源信と不仲になり、それ以来、人身攻撃の機を狙っていた。
彼は応天門炎上を放火とし、その罪を左大臣に帰した。
しかし、基経と良房はその策謀を封じた。
応天門炎上の5ヶ月後、備中権史生(びつちゆうごんのしじよう)大宅鷹取(おおやけのたかとり)という者が、大納言伴善男とその子の中庸(なかつね)らが共謀して応天門に放火したと密告。
鷹取は子女が善男の従僕生江恒山(いくえのつねやま)に殺されたことに怨みを抱いていたといわれる。
政府は、鷹取を左検非違使に引き渡して抑留。
天皇は勅を下して伴大納言を追及するが、彼は犯状を否認。
応天門事件の焦点が伴大納言に絞られ、廷臣たちは衝撃を受け、様々な流言が宮廷から平安京の巷に広まった。
承和の変の記憶が蘇る。
蔭で良房が動き、清和天皇は、勅を下して太政大臣良房に「天下の政を摂行(せつこう)」させた。
ここにおいて良房は名実ともに摂政という役割を担うことになったといわれる(但し、異論は多い)。
先に良房に一身の危急を救われた左大臣源信をはじめ嵯峨源氏の大官たちは、露骨きな良房の計略にれほどの反発を感じなかったであろう。
「天下の政を摂行せしむ」という勅の「天下の政」の最大の懸案は応天門放火事件の処理であり、この時の良房は、緊急事態に対応するために出仕を命じられたとの解釈もある。
この当時「摂政」や「摂行」は、大臣クラスの政務処理についても用いられ、取りあえず太政官での事件処理、ひいてはその後の政務処理を指導せよと命じたもの、という解釈である。
結果的に、良房の存在感が再確認され、源信は門を閉ざして出仕せず、善男に振り回された良相のメンツは潰され、良房の独り勝ちである。
『公卿補任』貞観8年の項で、「八月十九日、重ねて勅して天下の政を摂行せしむ」と、良房の再登場を促したように見える。
しかし、『三代実録』貞観8年8月19日条では、「太政大臣に勅して天下の政を摂行せしむ」とあり、『公卿補任』の「重ねて」はない。
8月末、伴中庸は左衛門府に拘禁され、同日、生江恒山とそれとの共謀関係を疑われていた伴清縄(きよなわ)は厳しく訊問された。
決め手になる自供ないし証拠が見つからず、裁判は長引いた。
善男も中庸も犯状を認めなかった。
9月末、朝廷は、大納言善男・中庸、彼らと共謀したという理由で、その従者紀豊城(きのとよき)・伴秋実(あきざね)・伴清純に対して応天門放火の罪を被せ、5人を遠流の刑に処した。
その累は紀・伴の2氏におよび、官にあるもの8人が配流の憂目にあった。
中には豊城の異母兄夏井(なつい)が含まれていた。
夏井は、天安2年(858)以来、讃岐・肥後の国守を歴任し、非凡なる治績をうたわれた古代まれにみる良吏であった。
良房らは、承和の変のとき以上に、この事件に乗じて古来の名門たる伴・紀の2氏に追い討ち、夏井をも政界から放逐した。
大化前代からの名族である(大)伴氏は最終的に没落。
事件の真相は不明だが、この事件で最も得をしたのは太政大臣藤原良房である。
良房は事件が起きると、天皇から「天下の政を摂行せよ」と命じられた。これを摂政のはじまりと解する見解もあるが、この件については、あくまで事件の解決を命じた命令であろう。
ともあれ事件の解決には、良房の意思が十分反映したはずである。
善男の配流はもとより、この事件の後、能吏であった良相は辞職し翌年没する。
源信も出仕しなくなった。
さらに、翌年には、良房の義理の娘(良房の兄長良の娘)高子が清和天皇のもとに入内し、後に貞明親王(後の陽成天皇)を生む。
こうしてみると、すべては良房が仕組んだ事件であったと考えることも十分可能である。
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7月
・最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の諡号を授ける。
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7月15日
・肥前国の基肄(きい)・藤津・高来・彼杵(そのき)の各郡の郡司らが、新羅人とともに新羅国に渡り、新羅人に兵器の技術を教えて、一緒に対馬を奪取しようと計画していると密告される(『三代実録』貞観8年7月15日条)
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