寿福寺は、山門から本堂までのアプローチが実に美しい。
まだ紅葉までには1ヶ月近くあるけれども、黄色いもみじもまた眩しく美しい。
寿福寺については、今回で4度目の投稿ですので、ウンチクは割愛します。
(過去の記事は、「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい)
*
下は、本堂側から山門側をみたところ
*
*
お寺の前にある「源氏山」の碑
*
*
「★鎌倉インデックス」 「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
*
*
2010年11月3日水曜日
鎌倉 横須賀線とススキ
今日(11月3日)は秋晴れの散歩日和
ひさしぶりに鎌倉へ
横須賀線の線路づたいに歩いていると、ちょうど下のような景色に遭遇しました。
特に、「鉄男」くんではないんですが・・・。
*
「★鎌倉インデックス」をご参照下さい。
*
ひさしぶりに鎌倉へ
横須賀線の線路づたいに歩いていると、ちょうど下のような景色に遭遇しました。
特に、「鉄男」くんではないんですが・・・。
*
「★鎌倉インデックス」をご参照下さい。
*
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(1) 「はじめに」ほか
今年の梅雨の頃から「永井荷風」という人にハマっています。
乱倫、淫乱、観察者、傍観者、散歩者、狷介孤高、やつし、などいろいろ評価のある人のようです。
*
きっかけは、半藤一利「永井荷風の昭和」(文春文庫)を読んだことからでした。
これは再読でしたが。
*
この半藤さんの本に、
佐伯彰一氏の指摘として、
「荷風の経歴には一つの便乗の事実もなければ転向もなく、荷風全集には、いわゆる時勢の変化のため抹殺さるべき一つの小品すらない」
という紹介があり、
半藤さんも、
この凄まじいばかりの一貫性、
しかも乱世にたいして頑強におのれを守りぬくばかりではなく、
ときに戦闘的であったところに
文明批評家としての荷風がある。
と指摘されています。
*
以来、荷風の「断腸亭日乗」(岩波文庫の「摘録」版でなく、岩波書店の6冊本)を読み、何冊かの荷風本をよみましたが、
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』(都市出版)平成8年9月
に勝るものはないのではないかと、今は思ってます。
*
あまりに荷風に寄り添いすぎているきらいもありますが、そんな感想など、今の私にはおこがましい限り、ひとまずは、きっちりと読まして戴こうと思う。
*
川本三郎さん
ずっと以前に、「朝日のようにさわやかに 映画ランダム・ノート」(筑摩文庫)など映画ものを読んだことがあります。
また、2008年に奥さんを亡くされ、今年出版された回想記『いまも、君を想う』が、城山三郎さんの同種回想記とともに話題になっています。
*
*
【目 次】
*
はじめに
*
一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て
*
二 老翁、俗を脱したり - 「老人」への共感
*
三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学
*
四 山の手の子の下町住まい
*
五 三味線の聞える町- 築地界隈
*
六 下町のうっとうしさ
*
七 崖の上の家 - 偏奇館独棲
*
八 「余花卉を愛する事人に超えたり」 - 庭の小宇宙
*
九 庭好む人 - 焚き火と掃葉
*
十 山形ホテル
*
十一 鴎外への景仰
*
十二 「小鯵の盬焼、里芋田楽、味甚任し」 - 淡的な食生活
*
十三 左團次との親交
*
十四 歌舞伎 - 愛すべきいかがわしき
*
十五 隅田川を渡って - 深川
*
十六 放水路の発見
*
十七 煙突の見える新開地 - 砂町
*
十八 「偶然のよろこびは期待した喜びにまさる」 - 元八まんへの道
*
十九 立ちあがる大東京- 震災後の復興
*
二十 ランティエの経済生活
*
二十一 探墓の興- 墓地を歩く
*
二十二 車が走るモダン都市
*
二十三 「つゆのあとさき」のころ
*
二十四 「銀座食堂に飰す」-東京の復興は飲食物より
*
二十五 銀座の小さな喫茶店で
*
二十六 「見る人」の写真道楽
*
二十七 「活動写真」との関わり
*
二十八 私娼というひかげの花
*
二十九 ある夜の女
*
三十 濹東の隠れ里 - 玉の井
*
三十一 陋巷での安らぎ
*
三十二 「濹東綺譚」と「寺島町奇譚」
*
三十三 玉の井から浅草へ
*
三十四 浅草の「一味の哀愁」
*
三十五 日中戦争下の日々
*
三十六 「門松も世をはばかりし小枝かな」 - 戦時下の物質窮乏
*
三十七 「家も蔵書もなき身」 - 偏奇館焼亡以後
*
三十八 田園に死す
*
あとがき
補註
参考文献
索引(地名・人名・書名)
*
*
*
「はじめに」では、「断腸亭日乗」とはなにかを概括的に紹介されている。
*
「断腸亭日乗」:
大正6年(1917年)9月16日37歳(数え39歳)~死の前日の昭和34年(1959年)4月29日、42年間の日記。
大正6、7年頃は何日か抜けているが、大正9年頃からほぼ毎日、その後は東京大空襲に際しても、終戦直後の混乱期にも1日も欠かさず書き続けられる。
*
「断腸亭」:
大正6年当時、荷風が住んでいた牛込区大久保余丁町の住居(父久一郎が明治33年に建てた来青閣)の一画に作られた六畳の書院の名。
荷風が好んだ花、断腸花(一般には秋海棠として知られる)から取られている。
また荷風は生来、腸が弱く、大正6年頃しばしばその不調に悩まされたことにも因む。
*
谷崎潤一郎は、昭和19年3月4日、麻布市兵衛町の偏奇館に荷風を訪ねたときに「日乗」を見せられたとして、
「荷風氏の未發表のものにて最も貴重なるは大正年間以来の日記なり。日記は榛原製雁皮の罫引(最近は紙質變りたる由)に實にていねいにそのまゝ版下になるやうに記しあり。美しく製本して五冊づヽ帙(チツ)入りになりをれり」
と「疎開日記」に記しているそうだ。
*
また、
荷風自身は、「日乗」昭和19年12月3日で、
「今日は余が六十六回日の誕生日なり。この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒に長命を歎ずるのみ。唯この二三年来かきつゞりし小説の草稿と大正六年以来の日誌二十餘巻たげ(ママ)は世に残したしと手革包に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし」
と記し、後世に残したいと思うほど大事にしていた。
*
*
遅くなりましたが、続きはコチラから始めています。
*
*
「★荷風インデックス」をご参照下さい。
*
*
荷風と東京―『断腸亭日乗』私註

*
荷風と東京(上) 『断腸亭日常』私註 (岩波現代文庫)

*
永井荷風の昭和 (文春文庫)

*
*
乱倫、淫乱、観察者、傍観者、散歩者、狷介孤高、やつし、などいろいろ評価のある人のようです。
*
きっかけは、半藤一利「永井荷風の昭和」(文春文庫)を読んだことからでした。
これは再読でしたが。
*
この半藤さんの本に、
佐伯彰一氏の指摘として、
「荷風の経歴には一つの便乗の事実もなければ転向もなく、荷風全集には、いわゆる時勢の変化のため抹殺さるべき一つの小品すらない」
という紹介があり、
半藤さんも、
この凄まじいばかりの一貫性、
しかも乱世にたいして頑強におのれを守りぬくばかりではなく、
ときに戦闘的であったところに
文明批評家としての荷風がある。
と指摘されています。
*
以来、荷風の「断腸亭日乗」(岩波文庫の「摘録」版でなく、岩波書店の6冊本)を読み、何冊かの荷風本をよみましたが、
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』(都市出版)平成8年9月
に勝るものはないのではないかと、今は思ってます。
*
あまりに荷風に寄り添いすぎているきらいもありますが、そんな感想など、今の私にはおこがましい限り、ひとまずは、きっちりと読まして戴こうと思う。
*
川本三郎さん
ずっと以前に、「朝日のようにさわやかに 映画ランダム・ノート」(筑摩文庫)など映画ものを読んだことがあります。
また、2008年に奥さんを亡くされ、今年出版された回想記『いまも、君を想う』が、城山三郎さんの同種回想記とともに話題になっています。
*
*
【目 次】
*
はじめに
*
一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て
*
二 老翁、俗を脱したり - 「老人」への共感
*
三 「持てあます西瓜ひとつやひとり者」 - 単身者の文学
*
四 山の手の子の下町住まい
*
五 三味線の聞える町- 築地界隈
*
六 下町のうっとうしさ
*
七 崖の上の家 - 偏奇館独棲
*
八 「余花卉を愛する事人に超えたり」 - 庭の小宇宙
*
九 庭好む人 - 焚き火と掃葉
*
十 山形ホテル
*
十一 鴎外への景仰
*
十二 「小鯵の盬焼、里芋田楽、味甚任し」 - 淡的な食生活
*
十三 左團次との親交
*
十四 歌舞伎 - 愛すべきいかがわしき
*
十五 隅田川を渡って - 深川
*
十六 放水路の発見
*
十七 煙突の見える新開地 - 砂町
*
十八 「偶然のよろこびは期待した喜びにまさる」 - 元八まんへの道
*
十九 立ちあがる大東京- 震災後の復興
*
二十 ランティエの経済生活
*
二十一 探墓の興- 墓地を歩く
*
二十二 車が走るモダン都市
*
二十三 「つゆのあとさき」のころ
*
二十四 「銀座食堂に飰す」-東京の復興は飲食物より
*
二十五 銀座の小さな喫茶店で
*
二十六 「見る人」の写真道楽
*
二十七 「活動写真」との関わり
*
二十八 私娼というひかげの花
*
二十九 ある夜の女
*
三十 濹東の隠れ里 - 玉の井
*
三十一 陋巷での安らぎ
*
三十二 「濹東綺譚」と「寺島町奇譚」
*
三十三 玉の井から浅草へ
*
三十四 浅草の「一味の哀愁」
*
三十五 日中戦争下の日々
*
三十六 「門松も世をはばかりし小枝かな」 - 戦時下の物質窮乏
*
三十七 「家も蔵書もなき身」 - 偏奇館焼亡以後
*
三十八 田園に死す
*
あとがき
補註
参考文献
索引(地名・人名・書名)
*
*
*
「はじめに」では、「断腸亭日乗」とはなにかを概括的に紹介されている。
*
「断腸亭日乗」:
大正6年(1917年)9月16日37歳(数え39歳)~死の前日の昭和34年(1959年)4月29日、42年間の日記。
大正6、7年頃は何日か抜けているが、大正9年頃からほぼ毎日、その後は東京大空襲に際しても、終戦直後の混乱期にも1日も欠かさず書き続けられる。
*
「断腸亭」:
大正6年当時、荷風が住んでいた牛込区大久保余丁町の住居(父久一郎が明治33年に建てた来青閣)の一画に作られた六畳の書院の名。
荷風が好んだ花、断腸花(一般には秋海棠として知られる)から取られている。
また荷風は生来、腸が弱く、大正6年頃しばしばその不調に悩まされたことにも因む。
*
谷崎潤一郎は、昭和19年3月4日、麻布市兵衛町の偏奇館に荷風を訪ねたときに「日乗」を見せられたとして、
「荷風氏の未發表のものにて最も貴重なるは大正年間以来の日記なり。日記は榛原製雁皮の罫引(最近は紙質變りたる由)に實にていねいにそのまゝ版下になるやうに記しあり。美しく製本して五冊づヽ帙(チツ)入りになりをれり」
と「疎開日記」に記しているそうだ。
*
また、
荷風自身は、「日乗」昭和19年12月3日で、
「今日は余が六十六回日の誕生日なり。この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒に長命を歎ずるのみ。唯この二三年来かきつゞりし小説の草稿と大正六年以来の日誌二十餘巻たげ(ママ)は世に残したしと手革包に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし」
と記し、後世に残したいと思うほど大事にしていた。
*
*
遅くなりましたが、続きはコチラから始めています。
*
*
「★荷風インデックス」をご参照下さい。
*
*
荷風と東京―『断腸亭日乗』私註
*
荷風と東京(上) 『断腸亭日常』私註 (岩波現代文庫)
*
永井荷風の昭和 (文春文庫)
*
*
天文24(1555)年1月~5月 播磨東2郡が三好長慶の勢力圏に入る。 松平竹千代(家康、14)、駿河府中の今川義元の館で元服 嘉靖の倭寇(倭寇、朝鮮全羅道を襲撃) 「(三好)長慶裁許状」発行 [信長22歳]
天文24(1555)年
*
*
この年
・フランス、プロテスタント指導者・海軍提督コリニーの指示を受けたヴィルガニョン、リオ・デ・ジャネイロにユグノー教徒入植。植民地コリニー砦建設。翌年にも増援派遣。
1560年、ブラジル完全征服を目指すポルトガル艦隊の攻撃をうけ撤収。
*
・フランス、パリ、最初の改革派教会創設。
初めてジュネーヴより牧師派遣(1557年、11人。1559年、32人)。
*
・フランス、陶工パリシー、釉陶技法を完成。
*
・トレド異端審問法廷、最大の活動期。審理総数1,100件。
*
*
1月10日
・阿波勝瑞城より三好義賢が、芥川城より三好長慶が、太山寺(神戸市垂水区伊川谷)に着陣。
1万で明石城包囲。
13日、和睦開城。
播磨への進出拠点を確保し播州平野を北上、美嚢郡に入り三木の依藤城を包囲(東播磨の要衝、のち秀吉は「三木の干殺」と呼ぶ兵糧攻めを行う)。
猛攻1ヶ月余、三木次郎は和睦を申し入れ降参。播磨東2郡が長慶の勢力圏に入る。
2月27日、長房・義賢の阿波・淡路軍は帰国、長慶も芥川城に戻る。
*
1月14日
・長尾景虎(26)、安田城(柏崎市城の組)安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城(北條高広)を攻めるよう命令。
2月、長尾景虎自ら、善根(柏崎市善根)に出陣、陣頭指揮をとる。孤立無援の北条高広は降伏。
長尾景虎、刈羽城降伏させる。
*
*
2月
・武田晴信長子義信(18)、佐久郡の反乱鎮圧。
*
2月5日
・信長(22)、鳴海城将の山口左馬助に同心した星崎・根上の者の所領を没収。
*
2月7日
・相良晴広、家法「相良氏法渡」20ヶ条を制定。
*
2月10日
・石見に侵略の吉川元春、福屋隆兼・周布元兼を破り、津和野三本松城・吉見正頼と手を組み益田藤兼(27)挟撃に動く。
11日、益田藤兼、家臣・金山元連に命じ三隅高城の支城・針藻城を築城。
*
*
3月1日
・医師・占星術師ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、プロヴァンス地方のサロンで予言詩「諸世紀」出版。
*
3月13日
・北条氏康、伊豆の船番匠弥五郎に、船舶建造についての条規を定めて通告。
*
3月14日
・本多忠勝、妙源寺・慶泉和尚より孫子の兵法を習い始める。
*
3月19日
・伊達晴宗の子総次郎、将軍義輝の偏諱を賜り輝宗を名乗る。
*
3月22日
・吉川元春、永安城・永安兼政を攻撃、落城。
永安兼政は益田藤兼を頼って益田七尾城に逃げる。
*
3月23日
・教皇ユリウス3世(68)、没(位1550~1555)。
*
*
4月
・長尾景虎5千、信濃入り。善光寺城山に本陣、旭山城と対峙。
*
4月
・春、毛利元就、厳島島内東側の要害山(約23m)に宮尾城建設に着手。
大野水道をにらむ好位置に拠点を築く。
厳島神社の門前町と港を支配してきた陶晴賢は、のど元に剣先を突き付けられた格好に追い込まれる。
4月8日、陶方の神領衆、安芸小方・大竹から小船70~80艘に分乗し毛利方厳島を攻める。
*
4月8日、毛利軍、矢野城を攻略。野間隆実降服。
*
4月13日
'・松平竹千代(家康、14)、駿河府中の今川義元の館で元服、松平次郎三郎元信と称す。
加冠は今川義元、理髪は関口義広。
*
4月23日
・武田晴信、信濃に出陣。
謙信を牽制するため、善光寺の押さえの旭山城(長野市)へ前年に帰属した善光寺小御堂別当栗田鶴寿を入れ、援軍・鉄砲300丁ほかを送る。
謙信は、旭山城の向かいに葛山城を構築。長期戦の様相。
*
*
5月
・ジュネーヴ、「リベルタン」派暴動、鎮圧。頭目ベトルリエ兄弟ら処刑。
*
5月1日
・教皇マルケウス2世(54)、在位1ヶ月にも満たずに没。
23日、パウルス4世(79)、教皇に即位(位1555~1559)。ジョバンニ・ピエトロ・カラファ(カラッファ)、ナポリ貴族カラッファ家出身。
反ユダヤ主義の勅令発布。ユダヤ人は生まれながらの奴隷であると強調。ローマのユダヤ人4~5千人をゲットーに閉じ込める(1555~1870の315年間)。
*
5月4日
・フランス、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、「予言集」。
「第一・詩百篇」第35番の詩にアンリ2世の死を予言するかのような詩句。
また、「第十・サンチュリ」第39番の詩で1560年12月5日のフランソワ2世の死を予言したと言われる。
*
5月8日
・信長(22)、小幡殿(孫三郎信光(信長の叔父)の後室「おはた殿」)へ長慶寺法主分・寺領等を安堵(「初瀬川建治氏所蔵文書」)。
*
5月11日
・嘉靖の倭寇。乙卯の変(朝鮮)。倭寇、朝鮮全羅道を襲撃。
この頃の倭寇には明王朝の海禁により貿易を禁止された中国人の参加が多い(中国社会内部の矛盾の激化の反映、中国民衆の階級的反抗のあらわれ)。
中心人物王直は博多に根拠を置く。やがて、明は海禁を緩和し、朱印船貿易へと展開してゆく。
明国の中期(16世紀)以降、貨幣経済が発展し、客商(新安商人・山西商人ら)を生む。一方、中小商人は客商の圧迫に対抗するため、海禁にもかかわらず倭寇との密貿易で自立しようとする。
国際的にはスぺインが海上権を握り世界貿易の中心となり、中国にも来航し貿易を行う。
中国の海禁は世界の動向にも逆行しており、倭寇はその専制王朝の海禁に抵抗する行動でもある。
*
5月13日
・陶晴賢、安芸厳島有の浦を焼き討ち。
*
5月14日
・毛利隆元、安芸草津に出陣。
*
5月26日
・三好長慶、物集女太郎左衛門尉と同久勝との年貢相論を裁許し、太郎左衛門尉に公用早急に納入させる(「天竜寺文書」)。
*
この月天文24(1555)年5月~永禄2(1559)年5月、「長慶裁許状」発行。
奉書ではなく、長慶が唯一の命令者として発行(長慶以外に上位命令者が存在せず、三好長慶の独裁時代)。この時期、幕府奉行人奉書も発給されていない。
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい
*
*
*
*
この年
・フランス、プロテスタント指導者・海軍提督コリニーの指示を受けたヴィルガニョン、リオ・デ・ジャネイロにユグノー教徒入植。植民地コリニー砦建設。翌年にも増援派遣。
1560年、ブラジル完全征服を目指すポルトガル艦隊の攻撃をうけ撤収。
*
・フランス、パリ、最初の改革派教会創設。
初めてジュネーヴより牧師派遣(1557年、11人。1559年、32人)。
*
・フランス、陶工パリシー、釉陶技法を完成。
*
・トレド異端審問法廷、最大の活動期。審理総数1,100件。
*
*
1月10日
・阿波勝瑞城より三好義賢が、芥川城より三好長慶が、太山寺(神戸市垂水区伊川谷)に着陣。
1万で明石城包囲。
13日、和睦開城。
播磨への進出拠点を確保し播州平野を北上、美嚢郡に入り三木の依藤城を包囲(東播磨の要衝、のち秀吉は「三木の干殺」と呼ぶ兵糧攻めを行う)。
猛攻1ヶ月余、三木次郎は和睦を申し入れ降参。播磨東2郡が長慶の勢力圏に入る。
2月27日、長房・義賢の阿波・淡路軍は帰国、長慶も芥川城に戻る。
*
1月14日
・長尾景虎(26)、安田城(柏崎市城の組)安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城(北條高広)を攻めるよう命令。
2月、長尾景虎自ら、善根(柏崎市善根)に出陣、陣頭指揮をとる。孤立無援の北条高広は降伏。
長尾景虎、刈羽城降伏させる。
*
*
2月
・武田晴信長子義信(18)、佐久郡の反乱鎮圧。
*
2月5日
・信長(22)、鳴海城将の山口左馬助に同心した星崎・根上の者の所領を没収。
*
2月7日
・相良晴広、家法「相良氏法渡」20ヶ条を制定。
*
2月10日
・石見に侵略の吉川元春、福屋隆兼・周布元兼を破り、津和野三本松城・吉見正頼と手を組み益田藤兼(27)挟撃に動く。
11日、益田藤兼、家臣・金山元連に命じ三隅高城の支城・針藻城を築城。
*
*
3月1日
・医師・占星術師ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、プロヴァンス地方のサロンで予言詩「諸世紀」出版。
*
3月13日
・北条氏康、伊豆の船番匠弥五郎に、船舶建造についての条規を定めて通告。
*
3月14日
・本多忠勝、妙源寺・慶泉和尚より孫子の兵法を習い始める。
*
3月19日
・伊達晴宗の子総次郎、将軍義輝の偏諱を賜り輝宗を名乗る。
*
3月22日
・吉川元春、永安城・永安兼政を攻撃、落城。
永安兼政は益田藤兼を頼って益田七尾城に逃げる。
*
3月23日
・教皇ユリウス3世(68)、没(位1550~1555)。
*
*
4月
・長尾景虎5千、信濃入り。善光寺城山に本陣、旭山城と対峙。
*
4月
・春、毛利元就、厳島島内東側の要害山(約23m)に宮尾城建設に着手。
大野水道をにらむ好位置に拠点を築く。
厳島神社の門前町と港を支配してきた陶晴賢は、のど元に剣先を突き付けられた格好に追い込まれる。
4月8日、陶方の神領衆、安芸小方・大竹から小船70~80艘に分乗し毛利方厳島を攻める。
*
4月8日、毛利軍、矢野城を攻略。野間隆実降服。
*
4月13日
'・松平竹千代(家康、14)、駿河府中の今川義元の館で元服、松平次郎三郎元信と称す。
加冠は今川義元、理髪は関口義広。
*
4月23日
・武田晴信、信濃に出陣。
謙信を牽制するため、善光寺の押さえの旭山城(長野市)へ前年に帰属した善光寺小御堂別当栗田鶴寿を入れ、援軍・鉄砲300丁ほかを送る。
謙信は、旭山城の向かいに葛山城を構築。長期戦の様相。
*
*
5月
・ジュネーヴ、「リベルタン」派暴動、鎮圧。頭目ベトルリエ兄弟ら処刑。
*
5月1日
・教皇マルケウス2世(54)、在位1ヶ月にも満たずに没。
23日、パウルス4世(79)、教皇に即位(位1555~1559)。ジョバンニ・ピエトロ・カラファ(カラッファ)、ナポリ貴族カラッファ家出身。
反ユダヤ主義の勅令発布。ユダヤ人は生まれながらの奴隷であると強調。ローマのユダヤ人4~5千人をゲットーに閉じ込める(1555~1870の315年間)。
*
5月4日
・フランス、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、「予言集」。
「第一・詩百篇」第35番の詩にアンリ2世の死を予言するかのような詩句。
また、「第十・サンチュリ」第39番の詩で1560年12月5日のフランソワ2世の死を予言したと言われる。
*
5月8日
・信長(22)、小幡殿(孫三郎信光(信長の叔父)の後室「おはた殿」)へ長慶寺法主分・寺領等を安堵(「初瀬川建治氏所蔵文書」)。
*
5月11日
・嘉靖の倭寇。乙卯の変(朝鮮)。倭寇、朝鮮全羅道を襲撃。
この頃の倭寇には明王朝の海禁により貿易を禁止された中国人の参加が多い(中国社会内部の矛盾の激化の反映、中国民衆の階級的反抗のあらわれ)。
中心人物王直は博多に根拠を置く。やがて、明は海禁を緩和し、朱印船貿易へと展開してゆく。
明国の中期(16世紀)以降、貨幣経済が発展し、客商(新安商人・山西商人ら)を生む。一方、中小商人は客商の圧迫に対抗するため、海禁にもかかわらず倭寇との密貿易で自立しようとする。
国際的にはスぺインが海上権を握り世界貿易の中心となり、中国にも来航し貿易を行う。
中国の海禁は世界の動向にも逆行しており、倭寇はその専制王朝の海禁に抵抗する行動でもある。
*
5月13日
・陶晴賢、安芸厳島有の浦を焼き討ち。
*
5月14日
・毛利隆元、安芸草津に出陣。
*
5月26日
・三好長慶、物集女太郎左衛門尉と同久勝との年貢相論を裁許し、太郎左衛門尉に公用早急に納入させる(「天竜寺文書」)。
*
この月天文24(1555)年5月~永禄2(1559)年5月、「長慶裁許状」発行。
奉書ではなく、長慶が唯一の命令者として発行(長慶以外に上位命令者が存在せず、三好長慶の独裁時代)。この時期、幕府奉行人奉書も発給されていない。
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい
*
*
2010年11月1日月曜日
京都 堀川丸太町周辺 伊藤仁斎の古義堂跡(国指定史跡) 高陽院跡 待賢小学校(昭和14年築)
京都の堀川丸太町周辺です。
*
伊藤仁斎の古義堂跡
堀川丸太町上ル東側
儒者伊藤仁斎(1627~1705)の邸宅と学塾跡。
「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国指定史跡。
*
高陽院跡
堀川丸太町東入ル北側
*
*
元京都市立待賢小学校(昭和14年築)
堀川丸太町西入ル南側
創立は明治2年10月。
京都では明治政府の学制(明治6年)が公布される前から、町衆主導で小学校が建設されました。
これを「番組小学校」といいます。「番組」は「町組」のこと。
明治6年の学制は、「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」というものですが、経済的基盤は保証されていませんでした。
京都の先進性が分かります。
*
*
「★京都インデックス」を ご参照下さい。
*
*
伊藤仁斎の古義堂跡
堀川丸太町上ル東側
儒者伊藤仁斎(1627~1705)の邸宅と学塾跡。
「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国指定史跡。
*
高陽院跡
堀川丸太町東入ル北側
*
*
元京都市立待賢小学校(昭和14年築)
堀川丸太町西入ル南側
創立は明治2年10月。
京都では明治政府の学制(明治6年)が公布される前から、町衆主導で小学校が建設されました。
これを「番組小学校」といいます。「番組」は「町組」のこと。
明治6年の学制は、「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」というものですが、経済的基盤は保証されていませんでした。
京都の先進性が分かります。
*
*
「★京都インデックス」を ご参照下さい。
*
11月1日「日本経済新聞」朝刊の世論調査 回答率61.8%、924件の集計です
今日「日経」朝刊一面に、
「内閣支持率40%に急落」の見出し。
二面には、関連する内容が詳細に解説されている。
*
*
世論調査のやり方が安易で脆弱だと思うので、以前少し書きました(コチラ)。
*
その際には、調査の具体的な数値データを持っていなかったので、今回はこれをまず書いておきます。
*
(記事)
「調査は日経リサーチが全国の成人男女を対象に、乱数番号(RDD)方式により電話で実施。
有権者のいる1,496世帯から924件の回答を得た。回答率は61.8%」
*
いちいちの主張は前回とダブりますので省略しますが、改めて安易さ、脆弱さを確認しました。
*
*
固定電話を持っていない人、
昼間家に居ないか、夜に電話があったけど忙しくて対応できなかった人、などのグループの
内閣支持率40%なら、結果的には同じなんでしょうが、果して・・・?
*
*
世のマーケッターさんたちは、どう考えているんでしょうか?
*
新聞社社内ではどういう評価をされているんでしょうか?
「責任」という意味において。
*
*
「内閣支持率40%に急落」の見出し。
二面には、関連する内容が詳細に解説されている。
*
*
世論調査のやり方が安易で脆弱だと思うので、以前少し書きました(コチラ)。
*
その際には、調査の具体的な数値データを持っていなかったので、今回はこれをまず書いておきます。
*
(記事)
「調査は日経リサーチが全国の成人男女を対象に、乱数番号(RDD)方式により電話で実施。
有権者のいる1,496世帯から924件の回答を得た。回答率は61.8%」
*
いちいちの主張は前回とダブりますので省略しますが、改めて安易さ、脆弱さを確認しました。
*
*
固定電話を持っていない人、
昼間家に居ないか、夜に電話があったけど忙しくて対応できなかった人、などのグループの
内閣支持率40%なら、結果的には同じなんでしょうが、果して・・・?
*
*
世のマーケッターさんたちは、どう考えているんでしょうか?
*
新聞社社内ではどういう評価をされているんでしょうか?
「責任」という意味において。
*
*
東京 銀座・築地散歩(5) 狩野画塾跡 築地場外市場 波除稲荷神社 築地市場 軍艦操練所跡 海軍経理学校跡碑
銀座をひと回りしましたので、次に築地に向います。
銀座もそうですが、以前は築地は築地川に囲まれた水辺の町。
下の地図は、松本哉「永井荷風という生き方」から無断借用。
新橋演舞場を右に見て更に直進すると、築地に入る。
*
*
場外市場の一角にTVでおなじみの・・・。
もう午後3時近くなので、大半のお店はもう周りの掃除をされている時間帯でした。
*
*
波除稲荷神社
場外市場を出たところにある。
一帯の埋め立て工事中に出てきた神体を祀ったところ波浪が収まったことに由来するという。
万治2年(1659)創建
*
*
「玉子塚」や「すし塚」がある
*
*
波除稲荷神社から築地場外市場方面を見たところ
*
*
海幸橋の説明板
*
*
築地市場
もうすでに閑散としていた
*
*
市場近く
*
*
軍艦操練所跡
*
*
海軍経理学校跡碑
かちどきの渡しの碑があるのと同じ場所です。
*
*

*
「★東京インデックス」 をご参照下さい。
*
銀座もそうですが、以前は築地は築地川に囲まれた水辺の町。
下の地図は、松本哉「永井荷風という生き方」から無断借用。
*
狩野画塾跡
ここは厳密に言えばまだ銀座です。銀座5-13
江戸幕府の奥絵師狩野派は四家あり、屋敷跡は全て中央区にあるそうです。
ここは、典信の画塾跡で、老中田沼意次の知遇を得ていたとのこと。
狩野芳崖、橋本雅邦などを輩出したそうです。
*
*狩野画塾跡
ここは厳密に言えばまだ銀座です。銀座5-13
江戸幕府の奥絵師狩野派は四家あり、屋敷跡は全て中央区にあるそうです。
ここは、典信の画塾跡で、老中田沼意次の知遇を得ていたとのこと。
狩野芳崖、橋本雅邦などを輩出したそうです。
*
新橋演舞場を右に見て更に直進すると、築地に入る。
*
*
場外市場の一角にTVでおなじみの・・・。
もう午後3時近くなので、大半のお店はもう周りの掃除をされている時間帯でした。
*
*
波除稲荷神社
場外市場を出たところにある。
一帯の埋め立て工事中に出てきた神体を祀ったところ波浪が収まったことに由来するという。
万治2年(1659)創建
*
*
「玉子塚」や「すし塚」がある
*
*
波除稲荷神社から築地場外市場方面を見たところ
*
*
海幸橋の説明板
*
*
築地市場
もうすでに閑散としていた
*
*
市場近く
*
*
軍艦操練所跡
*
*
海軍経理学校跡碑
かちどきの渡しの碑があるのと同じ場所です。
*
*
*
「★東京インデックス」 をご参照下さい。
*
明治6年(1873)9月16日~25日 木戸孝允、左半身不随となり伊藤博文が代理人を務める。 木戸は京都府幹部を攻撃する司法省(江藤)に激怒
*明治6年(1873)9月16日
・木戸孝允、軽い脳梗塞のため左半身が不自由となる。
伊藤博文が木戸の代理人の役割を果たす。
この日、木戸は、早朝から福沢諭吉を訪ね、その後、岩倉具視を訪ねる。
夜、訪れた山本覚馬と、京都府知事・参事の裁判・「陪審」のことなどについて話す。
*
「今夕より脳中平生ならず、頭痛甚だ烈し。山本に至る。途中人力車石に触れ、脳中に響くを覚ゆ。三日前より俄に安眠あたわず」(「木戸日記」同日条)。
木戸は人力車の事故が原因としているが、2年後にも同様の状態に陥ることもあり、軽い脳梗塞の発作と考えられる。
しかし、麻痺は左半身に止まり、言語能力も無事であった。
*
9月18日
・京都府権典事木村源蔵、木戸孝允を訪問。
20日、木村と山本覚馬が木戸を訪問。
夜、江藤参議が木戸を訪問。恨み言を並べる。
この日、伊藤へ書簡、裁判所廃止をいう。
21日、木村と山本が木戸を訪問。
夜、京都府七等出仕谷口起孝が来訪。京都裁判所の横暴を訴える。
夜、伊藤へ書簡。
*
20日付け、木戸孝允の伊藤博文宛て書簡
「臨時裁判所は、京都裁判所へ加担して偏り、ただひたすら威権をもって、京都府を圧倒しようとたくらみ、正院もまた裁判所へ偏っているといえる。
いっそ裁判所のようなものは、廃したほうが天下のため、人民のためになると申すべし。
旧幕時代の暴政においても、長谷信篤や槇村正直のように身分ある官員を、このように取り扱ったことはない」
*
21日付け木戸の伊藤博文宛て書簡。
「裁判所は、はじめから暴断にして、理非曲直を裁判する主意は、いささかもないといえる。
臨時裁判所をひらくときには、真に裁判の体裁を立て、かんじんの陪審員には、京都府と京都裁判所いずれにも関係のない者をえらぶように、なるべく早く、大隈重信を御論破いただきたい。
なお司法より、槇村正直を捕縛する伺いを、正院へ差し出すという。
明日にでも暴論をおこし、裁判において暴威をふるうやもしれず、国にとって不幸、人民にとっても、この上なく不幸なことと、嘆息つかまつる」
*
9月19日
・岩倉具視、フランス駐在公使鮫島尚信に礼と帰国後の政情を伝える手紙。
岩倉の現状における関心事は、
①大蔵省の井上・渋沢辞任と鉄道頭井上辞任。
②久光上京の混乱。
③「処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以って平穏」。
④台湾は「即今着手に至るまじく」、朝鮮も「是れ以って即時の事にては之れなくや」と急務と見ず。ロシア問題は重要視。
*
「廟堂上の事御案じの通り紛紜も之れあり」と、政府を巡る混乱2件をあげる。
①「井上渋沢及び工部井上等辞職、是には云々の義も之れあり甚だ心配」、
②「従二位久光殿義についても定めて御懸念と存じ侯ところ、随行門地家旧藩士二百五十人ばかりのところ、二百人は久光説得にて帰県相成り、先ず以て人心平穏、しかし同卿(*久光)進退の義については頗る入込候次第之れあり」とする。
*
民政関係については、
③「内地のところ、当時は処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以て平穏」と楽観し、「新令百出煩に堪えずの苦情之れあり候趣、何卒日本相応開化の等を得たきもの」と、性急な改革に若干の批判をこめて簡単に触れる。
*
対外問題については、
④「台湾始末紛紜御評議も候えども、多分即今着手には至るまじく」(正院での評議はあったが当分着手しないであろう)、
⑤「朝鮮征伐御互いかねて承知の通り真に御評議之れあり候えども、是れ以て即時の事にては之れなくや」、
⑥「樺太魯国住民追々暴動の件之れあり、右は捨置き難き次第にて専ら御評議中に御座候、是れは屹度談判も相始まり必ず始末遊ばさる事と推察」。
正院の外交論議は、「専ら」この問題に集中し近くロシアとの談判も始まるはずと重大視している。
⑦「支那事件、副島尽力の義略々(ホボ)承り候・・・未だ委細承知いたさず」(副島国権外交が成果をあげたようだが詳細は知らない、と簡単に扱う)。
*
この時点で岩倉が重要視しているのは、大蔵省紛議、島津久光騒動、外交問題の樺太問題くらい
(朝鮮問題=西郷派遣問題は重要視していない)。
*
9月20日
・1873年世界恐慌、ニューヨーク波及。ニューヨーク株式取引所閉鎖。
*
9月21日
・大久保利通、関西旅行(休暇)より帰京。
*
9月22日
・木村源蔵が木戸孝允を訪問。その後、伊藤博文、木戸を訪問。政府への復帰要請。
23日にも木村源蔵が訪問。
24日、大久保利通が、3日前に帰京したといって挨拶に訪れる。続いて、児玉淳一郎、西岡逾明、木村源蔵、が訪れ、臨時裁判所のことを話題にする。
その後、伊藤博文も訪れ、大久保の参議就任について話し合う。
*
9月24日付け「木戸日記」
「博文より近況を巨細了承せり、岩倉もまたしばしば博文を訪れしという」とある。
この日、伊藤は、木戸を訪ねる前に、岩倉邸に寄り、3日前に関西旅行から帰った大久保と会う。
伊藤がオルガナイザーとなり、三条、木戸、岩倉、大久保の間を調整。
*
9月22日
・伊藤博文、木戸孝允へ報告。
岩倉の話では黒田が大久保説得を引受けたとのこと。また、黒田は、むしろ西郷による大久保説得がより効果的だろうとのこと。また、大久保が参議になれば西郷も喜び、佐賀・土佐の参議からの引き離しも可能と判断する。
西郷抱き込みが、岩倉・黒田・木戸・伊藤4者共通の了解事項となっている。
同日、木戸、伊藤へ書簡。大久保の参議就任は留守政府へ対抗する意味で賛成と述べる。
*
9月25日付け伊藤の木戸への報告書簡。
「昨夕は御病臥を顧みず長談に及び恐入り奉り候。今朝岩公又々帰路枉駕これあり侯に付、昨夕申し上げ候件々老台において更に御意見これ無き趣相話し候処、殊の外喜悦の容形に御座候。・・・昨夕の御主意に御座候得ば(岩倉は)別段御異議もこれ無き事に付、全体の施設方法に至り候ては、篤と大久保との熟議を幾重にも渇望仕り候。」
と、木戸の意を受けて岩倉右大臣と調整を行なったことを報告。
伊藤は、岩倉から黒田が大久保説得の役割を引き受けたと知らされる。
岩倉の説明では、
「黒田の論」によれば、「大久保より今一層西郷と熟議に及び候えば、或いは其の詮これなくとも申し難くと申し侯由、且つまた老台(木戸)、大久保など列職なれば、西郷も大いに慰するところ之れあるべく、内心不平の生ずるところ、参議中右手に商業を扱い、左手で政柄を執る等は、いわゆる風俗を破り礼義を擾(ミダ)すと云うの一端にもこれあるべきかのロ気に御座候趣」であるという。
つまり、岩倉が黒田から聞いた話では、大久保が今一層西郷とじっくり話し合えば効果がないわけではなかろう。
また木戸と大久保とが「列職」(揃って参議に出仕)すれば、西郷も大いに心喜ぶはずである。西郷の「内心不平」は、右手で商売、左手で政治をするような参議がいるのがけしからんという「口気」だからである、という。
大久保を正院に送り込めば、西郷を他の参議連から引き離すことができると、岩倉・黒田間で話し合われ、それが伊藤に知らされ、さらに木戸にも伝えられている。
この書簡を信用すれば、従来の明治6年政変観(征韓論の西郷と非征韓論の大久保との対立と西郷の追放)が根底から揺らぐことになる。
この伊藤書簡によれば、大久保起用の狙いは、西郷との対抗ではなく、むしろ西郷を味方に抱き込む効果を期待したものである。
*
同日の、木戸の伊藤宛ての返書。
前日の伊藤の訪問について、「縷々御説話、近況の大略をも了得仕り、かえって病苦も失忘いたし申し候」と、代理人としての伊藤の行動に満足している事を伝えている。
*
*
「★一葉インデックス」 をご参照下さい
*
*
・木戸孝允、軽い脳梗塞のため左半身が不自由となる。
伊藤博文が木戸の代理人の役割を果たす。
この日、木戸は、早朝から福沢諭吉を訪ね、その後、岩倉具視を訪ねる。
夜、訪れた山本覚馬と、京都府知事・参事の裁判・「陪審」のことなどについて話す。
*
「今夕より脳中平生ならず、頭痛甚だ烈し。山本に至る。途中人力車石に触れ、脳中に響くを覚ゆ。三日前より俄に安眠あたわず」(「木戸日記」同日条)。
木戸は人力車の事故が原因としているが、2年後にも同様の状態に陥ることもあり、軽い脳梗塞の発作と考えられる。
しかし、麻痺は左半身に止まり、言語能力も無事であった。
*
9月18日
・京都府権典事木村源蔵、木戸孝允を訪問。
20日、木村と山本覚馬が木戸を訪問。
夜、江藤参議が木戸を訪問。恨み言を並べる。
この日、伊藤へ書簡、裁判所廃止をいう。
21日、木村と山本が木戸を訪問。
夜、京都府七等出仕谷口起孝が来訪。京都裁判所の横暴を訴える。
夜、伊藤へ書簡。
*
20日付け、木戸孝允の伊藤博文宛て書簡
「臨時裁判所は、京都裁判所へ加担して偏り、ただひたすら威権をもって、京都府を圧倒しようとたくらみ、正院もまた裁判所へ偏っているといえる。
いっそ裁判所のようなものは、廃したほうが天下のため、人民のためになると申すべし。
旧幕時代の暴政においても、長谷信篤や槇村正直のように身分ある官員を、このように取り扱ったことはない」
*
21日付け木戸の伊藤博文宛て書簡。
「裁判所は、はじめから暴断にして、理非曲直を裁判する主意は、いささかもないといえる。
臨時裁判所をひらくときには、真に裁判の体裁を立て、かんじんの陪審員には、京都府と京都裁判所いずれにも関係のない者をえらぶように、なるべく早く、大隈重信を御論破いただきたい。
なお司法より、槇村正直を捕縛する伺いを、正院へ差し出すという。
明日にでも暴論をおこし、裁判において暴威をふるうやもしれず、国にとって不幸、人民にとっても、この上なく不幸なことと、嘆息つかまつる」
*
9月19日
・岩倉具視、フランス駐在公使鮫島尚信に礼と帰国後の政情を伝える手紙。
岩倉の現状における関心事は、
①大蔵省の井上・渋沢辞任と鉄道頭井上辞任。
②久光上京の混乱。
③「処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以って平穏」。
④台湾は「即今着手に至るまじく」、朝鮮も「是れ以って即時の事にては之れなくや」と急務と見ず。ロシア問題は重要視。
*
「廟堂上の事御案じの通り紛紜も之れあり」と、政府を巡る混乱2件をあげる。
①「井上渋沢及び工部井上等辞職、是には云々の義も之れあり甚だ心配」、
②「従二位久光殿義についても定めて御懸念と存じ侯ところ、随行門地家旧藩士二百五十人ばかりのところ、二百人は久光説得にて帰県相成り、先ず以て人心平穏、しかし同卿(*久光)進退の義については頗る入込候次第之れあり」とする。
*
民政関係については、
③「内地のところ、当時は処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以て平穏」と楽観し、「新令百出煩に堪えずの苦情之れあり候趣、何卒日本相応開化の等を得たきもの」と、性急な改革に若干の批判をこめて簡単に触れる。
*
対外問題については、
④「台湾始末紛紜御評議も候えども、多分即今着手には至るまじく」(正院での評議はあったが当分着手しないであろう)、
⑤「朝鮮征伐御互いかねて承知の通り真に御評議之れあり候えども、是れ以て即時の事にては之れなくや」、
⑥「樺太魯国住民追々暴動の件之れあり、右は捨置き難き次第にて専ら御評議中に御座候、是れは屹度談判も相始まり必ず始末遊ばさる事と推察」。
正院の外交論議は、「専ら」この問題に集中し近くロシアとの談判も始まるはずと重大視している。
⑦「支那事件、副島尽力の義略々(ホボ)承り候・・・未だ委細承知いたさず」(副島国権外交が成果をあげたようだが詳細は知らない、と簡単に扱う)。
*
この時点で岩倉が重要視しているのは、大蔵省紛議、島津久光騒動、外交問題の樺太問題くらい
(朝鮮問題=西郷派遣問題は重要視していない)。
*
9月20日
・1873年世界恐慌、ニューヨーク波及。ニューヨーク株式取引所閉鎖。
*
9月21日
・大久保利通、関西旅行(休暇)より帰京。
*
9月22日
・木村源蔵が木戸孝允を訪問。その後、伊藤博文、木戸を訪問。政府への復帰要請。
23日にも木村源蔵が訪問。
24日、大久保利通が、3日前に帰京したといって挨拶に訪れる。続いて、児玉淳一郎、西岡逾明、木村源蔵、が訪れ、臨時裁判所のことを話題にする。
その後、伊藤博文も訪れ、大久保の参議就任について話し合う。
*
9月24日付け「木戸日記」
「博文より近況を巨細了承せり、岩倉もまたしばしば博文を訪れしという」とある。
この日、伊藤は、木戸を訪ねる前に、岩倉邸に寄り、3日前に関西旅行から帰った大久保と会う。
伊藤がオルガナイザーとなり、三条、木戸、岩倉、大久保の間を調整。
*
9月22日
・伊藤博文、木戸孝允へ報告。
岩倉の話では黒田が大久保説得を引受けたとのこと。また、黒田は、むしろ西郷による大久保説得がより効果的だろうとのこと。また、大久保が参議になれば西郷も喜び、佐賀・土佐の参議からの引き離しも可能と判断する。
西郷抱き込みが、岩倉・黒田・木戸・伊藤4者共通の了解事項となっている。
同日、木戸、伊藤へ書簡。大久保の参議就任は留守政府へ対抗する意味で賛成と述べる。
*
9月25日付け伊藤の木戸への報告書簡。
「昨夕は御病臥を顧みず長談に及び恐入り奉り候。今朝岩公又々帰路枉駕これあり侯に付、昨夕申し上げ候件々老台において更に御意見これ無き趣相話し候処、殊の外喜悦の容形に御座候。・・・昨夕の御主意に御座候得ば(岩倉は)別段御異議もこれ無き事に付、全体の施設方法に至り候ては、篤と大久保との熟議を幾重にも渇望仕り候。」
と、木戸の意を受けて岩倉右大臣と調整を行なったことを報告。
伊藤は、岩倉から黒田が大久保説得の役割を引き受けたと知らされる。
岩倉の説明では、
「黒田の論」によれば、「大久保より今一層西郷と熟議に及び候えば、或いは其の詮これなくとも申し難くと申し侯由、且つまた老台(木戸)、大久保など列職なれば、西郷も大いに慰するところ之れあるべく、内心不平の生ずるところ、参議中右手に商業を扱い、左手で政柄を執る等は、いわゆる風俗を破り礼義を擾(ミダ)すと云うの一端にもこれあるべきかのロ気に御座候趣」であるという。
つまり、岩倉が黒田から聞いた話では、大久保が今一層西郷とじっくり話し合えば効果がないわけではなかろう。
また木戸と大久保とが「列職」(揃って参議に出仕)すれば、西郷も大いに心喜ぶはずである。西郷の「内心不平」は、右手で商売、左手で政治をするような参議がいるのがけしからんという「口気」だからである、という。
大久保を正院に送り込めば、西郷を他の参議連から引き離すことができると、岩倉・黒田間で話し合われ、それが伊藤に知らされ、さらに木戸にも伝えられている。
この書簡を信用すれば、従来の明治6年政変観(征韓論の西郷と非征韓論の大久保との対立と西郷の追放)が根底から揺らぐことになる。
この伊藤書簡によれば、大久保起用の狙いは、西郷との対抗ではなく、むしろ西郷を味方に抱き込む効果を期待したものである。
*
同日の、木戸の伊藤宛ての返書。
前日の伊藤の訪問について、「縷々御説話、近況の大略をも了得仕り、かえって病苦も失忘いたし申し候」と、代理人としての伊藤の行動に満足している事を伝えている。
*
*
「★一葉インデックス」 をご参照下さい
*
*
2010年10月31日日曜日
★永井荷風インデックス
永井荷風インデックス
**
*
大逆事件への処し方 徳富蘆花 石川啄木 永井荷風 森鷗外 夏目漱石
*
「七月廿五日。くもりて蒸暑し。・・・日軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。・・・」(永井荷風「断腸亭日乗」昭和16年7月25日条)
*
「九月十二日。晴。朝の中より華氏八十八九度のあつさなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」昭和11年9月12日条)
*
永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(1) 関東大震災の年
*
永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(2) 関東大震災の年
*
永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(3) 関東大震災の年
*
昭和14年(1939)年9月14日永井荷風「断腸亭日乗」「戦争の禍害を示すものにあらず寧その利益を語るものなるべし。」
*
昭和16年(1941)年7月13日~18日 第二次近衛内閣総辞職 松岡外相更迭 「初より計画したる八百長なるが如し」(「断腸亭日乗」)
*
9月22日は中秋 「十五夜に雲なきは稀なり」(永井荷風「偏奇館漫録」)
*
昭和16年(1941)7月19日~24日 関特演 「いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亜に送らるゝならん」(荷風「断腸亭日乗」) ルーズベルト、野村大使に石油禁輸の可能性を警告
*
昭和15年9月27日 日独伊三国軍事同盟締結。「・・・自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をなす国家の恥辱之より大なるは無し・・・」(荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和15年(1940)年10月18日 「門外の木の間に何やら赤ききれの閃くを見る。女の腰巻かと見るにさにあらず、これ鄰家の墺國人ナチスの旗と日の丸の旗とを其門に立てたるなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
永井荷風略年譜(「断腸亭日乗」起筆まで) (1)
*
東京 三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 永井荷風の詩碑 花又花酔の川柳の碑 新吉原総霊塔 遊女「若紫」の墓
*
東京 安藤坂 牛天神 中島歌子歌碑 一葉が通った萩の舎跡 荷風が生まれ育った土地
*
東京 伝通院(でんずういん) 永井荷風育生地 富坂 東京都戦没者霊苑 礫川公園 春日局の像
*
昭和15年(1940)11月25日 「八紘一宇などいふ言葉はどこを押せばでるものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり。」(永井荷風「断腸亭日乗)
*
昭和15年(1940)12月31日 「花下一杯の酒に陶然として駄句の一ツも吟ずる餘裕あらば是人間の世の至楽なるべし。」(「断腸亭日乗」)
*
東京 九段周辺の永井荷風旧居跡(1) 冬青木坂の旧居跡
*
東京 九段周辺の永井荷風旧居跡(2) 九段南(旧麹町)の旧居跡
*
東京 永井荷風の満11歳の頃の通学路 半蔵門~一ツ橋
*
昭和16年(1941)1月1日 「人の命あるかぎり自由は滅びざるなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和16年(1941)1月25日 「政府はこの窮状にも係はらず獨逸の手先となり米國と砲火を交へむとす。笑ふべく亦憂ふべきなり」(永井荷風「断腸亭日乗」)。
*
昭和16年(1941)1月28日 「支那は思ふように行かぬ故、今度は馬来人を征服せむとする心ならんか。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和16年(1941)2月4日 「彼国(朝鮮)の王は東京に幽閉せられて再び其國にかへるの機会なく、其國民は祖先傳來の言語歌謡を禁止せらる。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
永井荷風年譜(1) 明治12年(1879)12月3日 荷風誕生 家族、生家のこと
*
昭和16年(1941)2月24日 「怨嗟の聲かくの如き・・・。軍人執政の世もいよいよ末近くになりぬ。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和16年(1941)3月3日 「新體制の腐敗早くも帝都の裏面にまで瀰漫せしなり。痛快なりと謂ふべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
永井荷風年譜(2) 明治13年(1880)1歳~明治25年(1892)満13歳
*
永井荷風年譜(3) 明治26年(1893)14歳~明治27年(1894)15歳 寺内寿一らによるイジメにあう 初恋とペンネーム(創作の初め)
*
永井荷風年譜(4) 明治28年(1895)満16歳~明治29年(1896)満17歳 中学校を病気留年 亡友井上唖々との出会い
*
昭和16年(1941)3月24日 「本国は北賊排虎(ヒトラ)の為に滅され、印度洋上の領土は倭寇の襲ふところならんとす。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
永井荷風年譜(5) 明治30年(1897)満18歳 初めて吉原に遊ぶ 第一高等学校受験失敗 家族と上海で暮らす
*
昭和16年(1941)4月4日 「新橋橋上のビラにもう一押だ我慢しろ南進だ南進だとあり。車夫の喧嘩の如し。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和16年(1941)4月26日 「世情混沌五里霧中に在るが如し。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
永井荷風年譜(6) 明治31年(1898)満18歳~明治32年(1899)満20歳 広津柳浪の門に入門 落語家の弟子になる 懸賞小説入選
*
永井荷風年譜(7) 明治33年(1900)満21歳~明治34年(1901)満22歳 小説修業の傍ら歌舞伎座立作者福地桜痴に入門 暁星学校夜学でフランス語を学び始める
*
永井荷風年譜(8) 明治35年(1902)満23歳~明治36年(1903)満24歳 「地獄の花」「夢の女」出版 アメリカに渡る
*
永井荷風年譜(9) 明治37年(1904)満25歳~明治38年(195)満26歳 「如何なる点からしても戦争と云ふ事に幾分の趣味も有する事ができない」 娼婦イデスとの耽溺生活
*
昭和16年(1941)5月8日 「戦争此のかた若き女の他處へ移住することを禁ぜられたり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
永井荷風年譜(10) 明治39年(1906)満27歳~明治40年(1907)満28歳 「余は娼家の奴僕となるも何の恥る處かあらん」 遂にフランスに渡る
*
昭和16年(1941)5月31日 「慾纂怪といふ化物・・・その吠る聲コーアコーアと聞ゆることもありセイセンと響くこともあり・・・。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
明治16年(1941)6月1日 「わが思想とわが藝術も願くばこの佛蘭西あじさゐの如くなれかし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和16年(1941)6月14日 「勧銀の営業振りは全く高利貸に異らざるものなし」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和16年(1941)6月15日 「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
昭和16年(1941)6月20日 「米国よ、速かに起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を與へしめよ。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(1) 「はじめに」ほか
*
*
*
*
*
*
*
*
登録:
投稿 (Atom)
