2012年4月22日日曜日

永禄13年(1570)3月 信長、天皇より「天下静謐」執行権を得る。 越相同盟成立 [信長37歳]

東京 代官町通り 2012-04-20
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永禄13年(1570)
3月
・信長、堺商人・松永秀久より名物茶道具を召上げ
(天王寺屋津田宗及の菓子の絵、薬師院の小松島の茶壷、油屋常祐の柑子の花入れ、松永久秀の鐘の絵など)。
前回同様、使者松井友閑・丹羽長秀が所有者に献上を命じる。
代物には金銀が与えられる。(「信長公記」)
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・信長、丹波の赤井忠家へ、丹波奥三郡の所領を義昭下知に任せ安堵(「寛永諸家系図伝」)。
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3月1日
・信長、義昭の御所(二条城)参向。触状により上洛した畠山一族・三好義長らの大名と山科言継が同道。
午後、信長は衣冠を帯び、将軍とは離れて参内、大勢の公家衆が相伴する。
この時、天皇より「天下静謐」執行権を得る(本来は将軍職に伴う権限、将軍代理の資格を得る)。自分の政敵を朝敵と断定できる。

 信長は、1月23日付5ヶ条の条書で義昭が認めた将軍権限の委任を、天皇と上洛した諸大名から承認され、制度上の義昭の傀儡化が完成
信長は自分の判断で、望む者を「朝敵」と認定し討伐できることになる。

この後すぐの越前遠征の際には、出陣に先立って信長は参内して暇乞いをし、天皇は戦勝祈願をしている。
更に、越前遠征には、公家の飛鳥井雅敦・日野輝資が従軍している(『言継卿記』)。彼らと烏丸家・高倉家は、「武家昵近(じつきん)公家衆」と呼ばれ、天皇に仕えると同時に将軍にも奉公するという特殊な家柄で、彼らは将軍代行としての信長に従っていると解釈できる。
信長の戦に公家衆が従軍するのは初めてのこと。

この時、信長の呼び掛けによって上洛した大名は、三木自綱・北畠具房・徳川家康・畠山高政・一色義道・三好義継・松永久秀など。
遠方の大田垣(但馬)・宇喜多(備前)・大友(豊後)は使者を遣わした。
だが、越前の朝倉義景からは何らの音沙汰もなかった。

それから1ヶ月間は、信長宿所には公家ら等、僧俗貴賎が挨拶に訪れ、引き出物は山のようだったという(「言継卿記」)

信長、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王に夫々、太刀一腰・馬代千疋を献上。親王母の新大典侍(しんおおすけ、万里小路惟房の妹房子)にも折紙千疋を献上。

御所造営祝いで観世大夫・金春大夫立合いに観能の会。
一番玉の井・二番三輪・三番張良・四番芦刈・五番松風・六番紅葉狩・七番融と定められ、地謡を生駒外記・野尻清介、笛を伊藤宗十郎らがつとめる。
参列者:飛騨国司姉小路中納言、伊勢国司北畠具教、三河国徳川家康、畠山高政・同昭高、一色義道殿、三好義継、松永久秀の諸大名ほか五摂家・清華家、畿内近国の諸豪。
義昭、信長へ官位昇進の上意。信長はこれを固辞。
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3月5日
越相同盟
上杉輝虎(41)と北条氏康が和睦。
輝虎、北条氏康7男氏秀(17)を養子をし、代わりに柿崎城(中頚城郡柿崎町)城主柿崎景家の子晴家を人質として小田原城に送る
(上杉・北条人質狭小解決。輝虎、氏政の子国増丸(5)に替え氏康7男氏秀で合意、氏秀を養子とし自分の幼名「景虎」を名乗らせる)。

4月11日、景虎、輝虎と共に春日城に向う。
12日、輝虎(41)、沼田城にて北條氏秀と対面、父子の義を結ぶび、春日山城に帰還。
25日、景虎と輝虎姪上田の長尾政景の娘との婚儀。輝虎、景虎を春日山城二の廓に置く。

景勝という「身内の養子」が先にいながら、謙信がどういう意図を持って彼に景虎の名を与えたかは不明
(景勝を本家「長尾上杉家」の主とし、景虎には「関東管領家」の惣領として関東方面を治めさせる腹づもり?)。
景虎は謙信の前名を授けられただけでなく、妻として長尾政景の娘(景勝の姉または妹)を娶る。つまり景勝・景虎は兄弟。
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3月5日
・足利義昭、信長・三好義継・松永久通らを随行させ放鷹(「言継卿記」4)。
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3月8日
・京中、地震(「言継卿記」4)。
土御門有脩(陰陽頭)、祈攘を行う(「御湯殿上日記」)。
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3月16日
・豊後の大友宗麟の使僧、信長宿舎に参礼。
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3月17日
・足利義昭、山科言継を同行し桜馬場で家康内衆の乗馬を見物。見物の貴賤2万(「言継卿記」)。
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3月18日
・信長の小早川隆景あて書状。毛利氏と播磨へ共同出兵すること、毛利氏と大友氏の和平を要望することを、伝える。
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3月19日
・この頃の都市坂本の様子。

「一山所々見物して坂下へ下る。
江州一国目前に見、青海船の往来、山々川々浦々名所残り無く見へ渡、無案内の間慥に其所を知らず。
山王廿一社拝見、社壇の結構目を驚かす。
然りと雖も参詣の人も稀に、社人社僧も見ず、神さびらつ躰也。
上坂本家々数多繁昌と見へたり。
それより南に小津の市場を見物、千五百家も在る歟。
小唐崎のいせ屋に留り了。」(「多聞院日記」同日条)。
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3月20日
・正親町天皇、竹内季治上奏の大原野神社社領についての綸旨を勅許。中御門宣教、綸旨により白川雅朝へ大原野神社社領については義昭下知・信長朱印等に任せ安堵する由通達(「言継卿記」)。
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3月20日
・正親町天皇、山科言継へ勧修寺晴右・二条昭実の所領相論(加賀井家庄)に関する裁許を義昭に命令する女房奉書を発給。
21日、山科言継、義昭へ女房奉書を申渡すが、「叡慮」には応じられないとの回答(「言継卿記」)。
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3月22日
・信長、一色藤長の山城曇華院(どんげいん)と大住庄3ヶ村での違乱行為を停止。森林跡と東・南跡職を守護不入として曇華院に安堵(「曇華院文書」)。明智光秀・中川重政・丹羽長秀・木下秀吉より通達。28日、木下秀吉・武井夕庵、大住庄の名主・百姓・小作中へ信長朱印による安堵の後に不法を上申する地下の「交名」提出を指示(「曇華院文書」)。
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3月27日
・大和井戸城、陥落。
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