東京 代官町通り 2012-04-19
*延喜14年(914)
4月
・式部大輔三善清行(みよしのきよゆき)、醍醐天皇の諮問にこたえて「意見封事十二箇条」を進上する。廷臣たちが求めにより時務策を盛り込んだ文章を捧呈し、これは、その中の一つ。
清行は受領の家に生れ、文章生から身を起すが、寛平政治改革の時代に、肥後・備中両国の介として実地に地方行政に携わった。
藤原保則の人と治績を敬慕して、自らその小伝を書く。
豊かであった国富が寺塔・院殿の営造や遷都・奢侈のために今や1/10に減じた
(奈良時代の仏寺造営で天下の富の5割が、桓武朝の宮都造営で3割が、仁明朝の奢侈で1割が消えた)、
そして貞観年間の応天門修復等で残りの大半が失われたと嘆く。
備中国邇磨郷での実情を例示して「天下虚耗」のさまを説き、12ヶ条をあげて細かく現状と改革の方途を述べる。
そして、彼は、受領の見地にたって国政の不振とその打開を論じる。
国・郡の衰微を論証したのち、口分田は現在口数に従って班給して民生の安定に資すべきことを要望し、
一方、
政府は権門と結託した土豪・有力農民の跋扈をおさえ、同時にかれらから排撃されがちな受領を擁護する必要のあることを切論している。
そのほか、大学の衰退、明法道の不振、奢侈の問題などにも鋭くふれて、その対策を具体的に述べる。
しかし、忠平らの政府は、地方政治立て直しの熱意を欠いていおり、この封事は奢侈の禁以外にはなんらの反応ももたらさない。
国検非違使に必要な資質として、法律をよく学んで犯罪を審理し断罪できることをあげる。
検非違所の活動には、馬盗人の捜査、犯人の禁獄、斬首の実検、訴訟における当事者の召喚などがあり、その職務は、武力による追捕よりも、捜査・審理・断罪などの勘糺に重点が置かれていた。
国内で日常的に発生する盗犯・闘乱・放火以下の軽犯の場合は、追捕官符を申請する必要はなく、受領の行政権の枠内で処理できる。
国衙は軽犯の訴えを受理すると、検非違所官人が国使として現場に行き、現地の郡司刀禰を指揮して追捕・勘糺を行い、犯人や証人を庁舎で取り調べ、検非違所獄舎に拘禁し、過料(罰金)を科した。
押領使・追捕使が国内武士を率いて重犯を犯した凶党を追捕する軍事指揮官であるのに対し、検非違所は、重犯の場合は勘糺を担当し、軽犯の場合は追捕・勘糺を担当する警察・検察機関である。
加賀守藤原為房の郎等となった平正盛が検非違所目代に起用されたように、検非違所官人には受領の郎等武士や国内武士が任用された。
彼らは追捕・勘糺という職務執行を通じて、一面では国内の秩序維持に責献しつつ、一面では犯人や嫌疑人の私領・財物を過料などの名目で押収して収益としていた。
このような国衙の重犯検断手続きが厳然と機能していたからこそ、10世紀以降の受領による国内支配は成り立ちえた。
この国衙の検断手続きのなかで、国内武士は押領使・追捕使・検非違所官人として追捕や勘糺の役割を担当した。
追捕官符にもとづく追捕活動・勘糺活動の担い手である限り、国内武士たちは合法的に暴力行使ができた。
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8月
・藤原忠平、右大臣となる。
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