東京 北の丸公園 2012-04-17
*延喜14年(914)
この年
・受領に衛府舎人の解任権が委ねられる。
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・この年、延喜東国の乱平定に勲功をあげた藤原利仁が鎮守府将軍に任じられる。
以後、高望子孫・秀郷子孫の有力武士が相次いで将軍に補任されてゆく。
10世紀初頭の北方政策の転換。
①これまでの奥五郡に加えて最北の岩手郡が建郡され、鎮守府が管轄する奥六郡が成立し、王朝国家の版図の北限が画された。
内国に移配された俘囚の帰還政策と岩手郡建郡は関連しているかもしれない。
奥六郡以北の津軽・糠部(ぬかのぶ)・閉伊(へい)・渡島(おしま、北海道)は夷狄の地とされた。
②陸奥国司の部下であった鎮守府将軍が国司から半ば独立した受領となり、奥六郡内の俘囚・公民を負名に編成して官物を収納し、北方夷狄と北方産品を交易進上する責任を負うことになる。
③延喜14年、藤原利仁が鎮守府将軍に任じられて以降、有力武士(高望子孫、秀郷子孫など)が相次いで将軍に補任される。
将軍を受領として奥六郡の俘囚支配、北方蝦夷との交易を請け負わせようとすれば、将軍は武士でなければ務まらなくなる。
④10紀中頃、鎮守府の胆沢城が廃絶され、将軍の館が事実上の鎮守府になる。
武士系将軍は優恤・教喩策をやめ、武威を背景に奥六郡支配を行う。
陸奥守源頼義が鎮守府将軍としての収納業務を行うために奥六郡を巡回した数十日間、奥六郡司安倍頼時は収納事務を手伝い接待饗応に務めているが(『陸奥話記』)、この頼時の応接は、一般諸国で郡司が収納使(子弟即等)の業務を補佐し饗応するのと同じである。
将軍が鎮守府胆沢城に俘囚を招いて饗応する関係から、俘囚が郡司として将軍とその子弟郎等を饗応する関係に、主客転換している。
胆沢城の廃絶
延暦11年(792)、諸国で兵士制が廃止されてからも、奥羽両国では兵士制が存続し、胆沢城を交替で警備していた。胆沢城と兵士制の存在が、奥六郡内部の俘囚間武力紛争、奥六郡俘囚と北方夷狄との間の武力紛争を抑止していた。
従って、9世紀には、奥郡や北方の夷狄の地に、恒常的な防御機能をもつ集落が営まれなかった。
10世紀、陸奥国兵士制が解体すると、胆沢城の紛争抑止機能は失われ、胆沢城のメンテナンス体制も崩れ、胆沢城自体が廃棄される。
それに継起するかのように防御性集落が登場する。
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2月
・武蔵介高向利春(たかむこのとしはる)、宇多院の「御給」により従五位下となる。
延喜兵部式によれば、牧は全国に設置されていたが、9世紀以降、実際の史料上で確認できるのは、信濃・上野・甲斐・武蔵国に所在した御牧(みまき)と呼ばれる特別な牧に限定される。
御牧からは毎年一定数の馬が進上され、天皇の前で牽き廻された後、臣下に下賜する駒牽(こまひき)と呼ばれる儀式があった。
秩父牧は、承平3(933)年に御牧に組み込まれるが(『政事要略』)、それ以前は宇多院の所有であった。
高向利春:
延喜5(905)年8月、秩父牧の馬を貢上した功績により、牧司として褒賞される(『西宮記』)。
ついで、同年9月には武蔵掾、延喜11年には武蔵介に任命される。
延喜14年2月、宇多院の「御給」により従五位下、延喜18年には宇多院の「院分」により武蔵守となる。
この間、延喜15年11月、武蔵介として宇多法皇に面会(『北山抄』)。
彼の経歴は、武蔵一国で、武蔵掾から僅か13年で武蔵守にまで出世したことなど、異例ずくめ。
「御給」は年爵ともいい、この場合、宇多院が利春を五位にする権利を行使したことを指す。
「院分」とは院分受領ともいい、ここでは利春を武蔵守にする権利のことを言う。
つまり、利春は、秩父牧の管理責任者を振り出しにし、宇多との近臣関係をもとにして、きわめて短期間で武蔵国の頂点にまで上り詰めた。
逆に言えば、字多は自己の牧がある故に、武蔵国を重視していたとも言える。
院宮王臣家がみずからの近臣を荘園や牧の経営者として送り込んだことが容易に想像される。
当然、近臣たちは主人の権威を笠に着て、納税を拒否するなど、国司と対立したり、非法を働くことも少なくなかった。
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