2012年4月30日月曜日

昭和17年(1942)4月17日 「八重櫻の散り残りたるに狂風の枝も折れよと吹きすさむさまいかにも戦乱の世らしき心地なり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 北の丸公園 2012-04-25
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昭和17年(1942)
4月16日
・四月十六日、晡下雨俄に濺来る。夜に入るも歇まず。
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4月17日
四月十七日。陰晴定らず風寒し。
八重櫻の散り残りたるに狂風の枝も折れよと吹きすさむさまいかにも戦乱の世らしき心地なり。
岩波書店に平井程一の悪事を警告す。晩間飯倉一丁目紙問屋万屋にて和本表紙の紙を購ひ芝口の金兵衛に飯す。
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4月18日
四月十八日。日頃書きつゞりしものを整理し表紙をつけて冊子となす。これが為に半日を費したり。
晡下芝口の金兵衛に至り初めてこの日午後敵國の飛行機来り弾丸を投下せし事を知りぬ。火災の起りしところ早相田下目黒三河嶋淺草田中町邊なりと云。歌舞伎座晝間より休業、淺草興行物は夕方六時頃にて打出し夜は休業したりと云。新聞号外は出ず。
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4月19日
四月十九日 日曜日 晴。やゝ曖なり。今日も世間物騒がしき様子なり。午睡半日。晡下金兵衛に至り人の語るところを聞くに大井町鐡道沿線の工場爆弾にて焼亡、男女職工二三百人死したる由。淺草今戸邊の人家に高射砲の弾丸の破片落來り怪我せし者あり、小松川邊の工場にも敵弾命中して火災にかゝりし所ありと云。新聞紙は例の如く沈黙せるを以て風説徒に紛々たるのみ。
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4月20日
・四月二十日。細雨烟の如し。
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4月21日
四月廿一日。天気好晴。土州橋の歸途榛原にて自扇二十本短冊等を購ふ。佐藤観次郎満洲吉林より書を寄す。
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4月22日
四月廿二日。晴。晩間金兵衛に飯す、偶然市川三升に逢ふ、
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4月23日
四月廿三日、晴、七八日頃の月冴えわたりて風寒し、
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4月24日
・四月廿四日。晴、
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4月25日
四月廿五日。晴。淺草オペラ館楽屋を訪ふ、半月おぼろなり、
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4月26日
四月廿六日 日曜日 晴、庭の杜鵑花(つゝじ)胡蝶花(しやが)満開、木苺の白き花郁子の花と共に散ち(ママ)そめたり。

巷の噂
昭和十一年二月廿六日朝麻布聯隊叛軍の士官に引率せられ政府の重臣を殺したる兵卒は其後戦地に逸られ大半は戦死せしやの噂ありしが事實は然らず、戦地にても優遇せられ今は皆家に在りと云。
余の知りたる人はもと慶應義塾の卒業生にて叛軍士官に従ひたる者。過日偶然銀座街上にて邂逅し重臣虐殺の顚末及び出征中のはなしを聞きたり。南京攻撃の軍に従ひ二年半彼地に在りしと云。南京は一度に落ちしにはあらず。二回敵軍に奪回せられ三度目に至り初て占領するを得たりしなりと云ふ。
この人は高橋是清の機関銃に打たれて興る斃るゝさまを目のあたりに見、また中華人の数知れず殺さるゝを目撃しながら今日に及びては戦争の何たるかについては一向に考ふるところ無きが如し。
戦争の話も競馬のはなしも更に差別をなさぬらしく見ゆ
今日の世には此くの如き無神経の歸還兵士甚多し。過去の時代にはトルストイなど云ふ理想家の在りしこと夢にも知らぬなるぺし。
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4月27日
・四月廿七日。南風吹きすさみて暑し。晡下士州橋より向嶋に行く。
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4月28日
四月廿八日。午後うさぎ屋の主人怙寂子來話。菓子及び餅を恵贈せらる。先年余が外妾お歌の家に懸置きたる額を請はるゝがまゝ怙寂子におくりぬ。壷中庵の記をしるせしものなり。刻驟雨。金兵衛に飯す。
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4月29日
四月廿九日。晴。午後杵屋五叟來話。夜ユーゴーの詩集恐怖の年を誦す。
(略)
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4月30日
四月三十日。半陰半晴。終日睡魔に襲はる。怙寂子來書。夜いつもの如く金兵衛に飯す。
京橋区内カフェー洋食店等に雇用せらるゝ者の中凡弐百人ばかり徴用令にて二年間沖電気工業會社工場の職工にせられ合宿所に入れられたりと云ふ。金春新道喫茶店キユベルの息子もその中に在りと云ふ。
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4月18、19日の記述はドゥーリットル隊による日本初空襲のこと。
以下、「黙翁年表」より

昭和17年(1942)4月18日
・日本初空襲
午前6時30分、釧路に帰投中の監視艇第23日東丸(90t)が敵飛行機発見の第1報。
続いて6時50分、敵空母3隻見ゆ(実際は2隻)との米機動部隊接近を報告。
8時45分、空母ホーネットとエンタープライズ、攻撃時間を10時間早め、日本本土から670マイル(1200km)の地点でB25中型陸上爆撃(ドゥーリットル隊)機16機を発艦。


7時30分(東京時間午前3時30分)、東経152度線に沿って南下中の第2哨戒隊17隻のうち哨戒艇「第23日東丸」(中村盛作兵曹長)から、「敵空母三隻見ユ、ワガ地点犬吠岬ノ東六〇〇マイル」の緊急電があり、軍令部・連合艦隊は、第26、21航空戦隊に攻撃命令を発し、第1航空艦隊・第3潜水戦隊に現場急行を命じる。
第1航空艦隊は、4~9日セイロン島コロンボ、トリンコマリを襲い、台湾海峡を北上して帰途にあり、第3潜水戦隊3隻は、米機動部隊出現位置の西約200マイルにある。
水上部隊は間にあわず、航空部隊も、敵の攻撃は翌日と考え、陸攻39・戦闘機24の攻撃部隊が発進したのは、東京空襲が終ったあと(午後零時45分)。


7時55分、ハルゼー中将は、重巡「ナッシュビル」に「第13日東丸」を撃沈させ、「エンタープライズ」艦載機に他の漁船攻撃を命じるが、発見されたのは確実と判断、8時、計画を変更してドーリットル隊発進を命じる。東経153度27分、北緯35度28分、東京まで668マイル、中国到着まで燃料がもつかどうか、危ぶまれる地点。
8時25分、ドーリットル中佐機を先頭に発艦を開始。西部劇監督ジョン・フォード中佐指揮で、発艦の模様が撮影される
9時19分、最後の1機が「ホーネット」を発艦し、全16機は無事発艦。ハルゼー部隊は25ノットで避退。


12時15分、海面すれすれの低空飛行で本土に侵入。
12時30分頃、1番機が東京上空に達し高度を400mまで上昇させ東京初空襲第1弾を投下。全16機中13機が東京・川崎・横浜・横須賀、2機が名古屋(内1機は四日市)、1機が神戸を爆撃。荒川区尾久町、川崎の日本鋼管、昭和電工のガスタンクなどが被害を受ける。
爆撃機は本土を横断して中支方面に向かう。


被害:監視艇2隻沈没、戦死33、戦傷23。
空襲被害:死者45、重傷153、家屋全焼160戸、全壊21戸。


B25B、1機がウラジオストックへ、15機は大陸まで飛行。隊員80中墜死・溺死5、日本軍捕虜8(処刑3、獄死1)


首都防衛にあたる東部軍司令部は、空襲直後、「敵9機を撃墜、我方の損害は軽微なる模様」と発表。
19日付「朝日新聞」朝刊は、「初空襲に一億沸る闘魂 敵機は燃え、墜ち退散”必消”の民防空に凱歌」「バケツ、火叩きの殊勲 我家をまもる女手 街々に健気な隣組群」「鬼畜の敵、校庭を掃射 避難中の学童1名は死亡」の見出しで、同日付同紙夕刊は、「きょう帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との見出しで報道。


奇襲は成功。効果はむしろ心理的なもので、山本五十六連合艦隊司令長官はこの奇襲にショックを受け、持論のアリユーシャン~ミッドウェーの線上で敵機動部隊を撃滅する作戦を主張、結局これが他の作戦に優先して行なわれる。

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