2012年4月15日日曜日

昌泰4年/延喜元年(901)閏6月25日 播磨国衙の解文にみる地方での徴税逃れの実態

東京 北の丸公園 2012-04-12
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昌泰4年/延喜元年(901)
閏6月25日

この日付け太政官符に掲げられた播磨国衙から中央政府への解文(げぶみ、報告書)には、
地方の豪族・有力農民の旺盛な日常の活躍ぶりが描かれている。
それは、律令的秩序を揺るがし、打ち壊すほどのもの。

播磨国衙の解文には、
播磨国に住む人の半分は衛府の舎人(左右衛門府・左右近衛府・左右兵衛府など衛府の下級官人)となっており、勤務先の衛府から都で勤務しているとの偽の証明を出させ、播磨国に居住しているにもかかわらず、都にいると主張して納税を拒否している。また、出挙も受けず無道な行いをしている、と指摘。

「調庸租税は、国の大事なり。
この国(播磨)の百姓過半はこれ六衛府の舎人なり。
初め府牒(ふちよう、衛府の文書)して国を出て以後、偏(ひとえ)に宿衛と称して課役に備わらず、田疇を領作して正税を受けず。
無道を宗として国郡に対捍(たいかん)し、
或いは作るところの田稲を私宅に苅り収めし後は、その倉庫ごとに争いて牓札(ぼうさつ)を懸け、本府の物と称し、勢家の稲と号す、
或いは事已(や)むをえずして収納使ら認徴の時に、是非を弁(わきま)えず、捕えて以て凌轢(りようれき、はずかしめる)し、
動(やや)もすれば群党を招き恣(ほしいまま)に濫悪(らんあく)作る。・・・」
(昌泰4年閏6月25日太政官符(『類聚三代格』巻20))

(意訳)
「調庸や租税の徴収は国司の大事な仕事である。
ところがこの国の百姓の大部分は六衛府(ろくえふ)の舎人(とねり)になっており、彼らは、いったん府からの採用通知(課役免除の通知でもある)が国に届くと、衛府に宿直していると称して、課役を出そうとしないし、広大な土地を経営しながら、正税納入を拒否するなど、もっぱら無道を行い、国郡司に反抗ばかりしている。
時には収穫を私宅に苅り収めた後、その倉ごとに急いで榜札を懸け、「これは本府の物だ」とか「勢家の稲だ」とか言い張る。
やむを得ず、収納使たちが差し押さえようとすると、自分のやっていることの是非も考えずに、捕まえて暴行を加える始末である。
ややもすれば群党を招きよせ、気ままに濫悪をなしている。
こういう事情だから、租税専当の国司や調綱郡司は、彼らの威猛を憚って現物を取り立てられず、仕方なく契約文書だけをもとめ、空しく「里倉(りそう)」を建てることになる。
こういうわけで、調庸は期限を過ぎても未進のままとなるし、正税は違法に返挙されることになるのである。
国司交替の際には、そうやってできた未進や返挙などの責任をいちおう前任者に負わせるのだが、遂には追及不可能となってしまう。」

地方での租税徴収の問題点、徴税側の弥縫(びほう)策とその結果。
①播磨国は都に近いこともあり、国内には、いったん六衛府の舎人という地位を手に入れると、実際には勤務していないのに課役免除の特権だけは享受し続けようとする人々が多い。
それは、六衛府だけでなく、宮廷社会の有力な者(「院宮王臣家(いんきゆうおうしんけ)」「権門勢家(けんもんせいけ)」)に繋がってその後ろ盾によって徴税官に対抗しようとする動きが拡がっている。
有力者との繋がりさえあればそういう行動をとれるので、これは、都に近い地域でのみ起こっている現象ではない。
こういう連中は、自分の収穫を自分の倉に納め、それに後ろ盾となる役所や有力者の物という榜札(パネル)をぷらさげ、徴税官に対抗している。

②彼らは、いったん免除されると二度と課役を納めないばかりでなく、課役(調庸などの人頭税)とは別の範噂である公出挙に関しても、本稲の支給を受け付けず、利稲相当分を払おうともしない

③徴税官(「租税専当・調綱郡司」)は、納税しようとしない連中からの取り立てに苦慮して、「里倉」という方策を採用している。
それは、現物を取り立てず、契約書だけを出させ、それによって里倉という倉庫を建てたことにするという方策である。
言い換えると、納税しない連中が有力者の物というパネルを下げて収穫物を納めている倉を、名目としては里倉ということにして、中身を国郡のものと見なす方策である。
これによって、国郡は所有権をその倉に対して主張しうるし、国郡の帳簿上の徴税は達成されたことになる。
しかし、その所有権は現実的には意味のあるものではない。
国郡はそこから調庸の現物が取り出せず、本稲・利稲は里倉にあると主張し、また本稲は「返挙」概念を用いて当座を糊塗しても、結局は国郡の掌握は及ばない。
こういった当面の弥縫策が代々の国司によって積み重ねられる間に、取り立て責任の所在、弁償責任の所在について、わけが分からなくなってしまう

やがて、律令制の諸負担は、大きく分ければ官物と臨時雑役という二つの税目に編成がえされていく。

官物は租調庸や公出挙利稲の流れを汲むとはいえ、すでに田土に課せられる地税になってしまったものであり、後者は雑徭(ぞうよう)の流れを汲むもので、実際に徴発される際には人に課せられるが、そうでなければこれまた田土を基準として物品で徴収される。

政府は、諸国受領に国内に居住する衛府舎人を説得して諸作(しよさく)公田の官物を納める負名とするよう命じる。
しかし、受領に衛府舎人の肩書きを剥奪する権限はない。

余剰舎人の発生
8世紀の律令国家では、大極殿に出御した天皇を朝堂院に整列した全官人と蕃国使(ばんこくし、新羅使・渤海使)・蝦夷が拝礼する、元日朝賀の儀に代表される壮大な国家儀礼が行われていた。
それは天皇と律令国家の全官人との臣従関係、「東夷の小帝国」日本と蕃国・夷秋との服属関係を確認する儀礼であり、儀仗兵の整列と行進がその威厳を演出した。
そのためには大量の衛府舎人が必要だった。

しかし9世紀、小帝国たることを放棄し、朝堂院を舞台とする国家儀礼は衰退し、代わって内裏を舞台に天皇と公卿殿上人によって行われる優雅で繊細な宮廷儀礼が発達していった。
そこにはきらびやかに着飾った近衛中少将と、馬芸・射芸・舞楽などの芸能を家業とする少数の近衛下級官人・舎人がいればよかった。
寛平・延喜の国制改革により、このような儀礼体系も転換していった。

従って、衛府は大量の余剰舎人を抱えることになる。
その多くは在京勤務をしないで国内に居住し、免税特権だけを享受して国衙の支配に従わない諸国富豪層であった。
とくに播磨・備前・伊予・讃岐など瀬戸内沿海諸国は、衛府の大粮米(たいろうまい、舎人らに支給される食料)進納国に指定されていたため、9世紀未には、これら諸国の衛府舎人は大粮米の取得権があるといって納税を拒否し、国衙収納使がやって来ると、「群党」を集めて追い返すという事態が発生していた。

そこで、このような諸国に居住する衛府舎人を削減し、国衙支配に服させることが、国制改革の大きな課題となった
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