東京 北の丸公園 2012-04-20
*「朝日新聞」4月26日「論壇時評」 高橋源一郎
入学式で考えた ぼくには「常識」がない?
取り上げられた論考
①尾木直樹「子どもたちの新しい人権のために」(「現代思想」4月号)
②尾木直樹・土肥信雄の対談「学校を死なせないために」(「世界」5月号)
③桜井智恵子『子どもの声を社会へ』(岩波新書、2月刊)
④国連子どもの権利委員会の「最終見解:日本」(外務省のホームページから、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf)
⑤村田奈々子「ギリシャはどれほど『ヨーロッパ』か?」(「中央公論」5月号)
入学式で考えた ぼくには「常識がない?
1年前、長男のれんちゃんが小学生になった時の入学式のことだ。
最初に、校長先生が、舞台中央の演壇に向かって深くお辞儀をした。でも、演壇にはなにもない。
「はて?」と思って、よく見ると、左奥に日の丸の旗がある。
誰に向かって、何のためにお辞儀をしているんだろう。
まるでわからない。
ぼくに常識がないからなのかな。
しばらくして、「国歌斉唱」の番になった。
そしたら、ぼくは、なんだか憂鬱になった。
誰がこんなやり方を決めたんだろう。
半月前の保育園の卒園式には、あんなに感動したのに。
で、突然気ついたんだ。
卒園式では、子どもたちがたくさんの歌を歌った。
みんな、子どもたちのための歌だった。
でも、小学校の入学式で歌うのは、子どもたちのための歌じゃない。
これは、子どもたちのための式じゃなかったんだ!
だから、こう思ったよ。「小学校の入学式は、たぶん、キョウイクイインカイとかそれを指導しているエラい人のための式なんだ。だから、イヤになっちゃうんだ。現場の先生に任せたら、もっと嬉しいものになったのになあ」って。
(略)
今月、「教育」について論じだものが多かったのは、「教育」に、たいへんなことが起こっているからなんだろうか。
大治躍しているのは尾木ママこと尾木直樹さん。二つも雑誌に登場している(①②)
尾木さんがいっているのは、(日本の)みんなが「常識」だと思っていることが、実はそうじゃないってことだ。
この国の外では、教育はどうなっているのか。世界を飛び回って、尾木ママは調べる。
たとえば、「世界で大学入試試験をやっている国はほとんどない」とか、日本のパパやママは、世界の平均の2倍から3倍も教育にお金を払わされているとか。
知らないことばかりだよ。
オランダでは、「朝学校に行って一時間目から五、六時間目までの時間割を決定するのは子どもたち自身」で、先生はそれを支援する役目。そして子どもたちは「自分が決めたことだから自分で責任を持とう」とするっていうんだ。宿題だってまったくないってさ(①)。
それでも、160カ国からも移民が集まるこの国で、日本と学力が変わらないのは、「子どもたちの人権」こそ最優先だ、という考え方があるからなのかもしれないね。
あなたの国では子どもたちが悲惨な状態のまま放置されている、っていわれたら誰だって驚くよ。しかも、その場所が「学校」だっていうんだから。
桜井智恵子さんの『子どもの声を社会へ』(③)の最初の方に書いてあるのはこのことだ。
国連・子どもの権利委員会が、厳しい競争環境が子どもたちをイジメや精神障害といった不幸な状態に陥らせていると日本に勧告した(④)。
へえ、そんな風に見られていたのか。ぼくは「世界の常識」を知らなかったんだ。
日本で初めて「子どもの人権オンブズパーソン」制度を作ったのは兵庫県川西市で、横井さんはそのオンブズパーソン。
競争社会は、弱い者に負担を強いる社会だ。
そして、もっとも弱い者とは子どものことだ。
桜井さんは、疲れ傷ついた彼らの声に耳をかたむけ、立ち上がる手助けをする。その過程で、桜井さんは気づく。子どもたちが、悲鳴のように、この社会の構造を変えてほしいって訴えてることに。
桜井さんは、こういう。
「私たちの社会は子どもたちが引き継いでくれる。だから大人は、子どもに失礼のないように、思考停止をしてはいけない」
その通りだ。この社会は、やがて子どもたちに引き継がれる。なのに、ぼくたちの「常識」には「子どもに失礼のないように」ということばがないんだ。
「常識」があてにならないのは、それだけじゃない。
ぼくたちは、ギリシャをヨーロッパの一部だと思ってる。
でも、村田奈々子さんは、確かに古代ギリシャ文明はヨーロッパ文明を産んだけど、中世以降、正教会に属するキリスト教の地だったギリシャはヨーロッパではなかったと書いている(⑤)。
だから、ヨーロッパはギリシャに冷たいんだってさ!
それから、北朝鮮の「ミサイル」発射の件もなんか変な気がするんだよ。
海外のメディアは、「ロケット」と呼んでいるみたいだけど、日本にいると、目に飛び込んでくるのは「ミサイル」ということばだ。
弾頭を装着すれば「ミサイル」で、宇宙開発が目的ならロケットというらしいんだけど、そんな違い、なんか意味があるのかな。
っていうか、その「ミサイル」より、アメリカ軍が持ち込んでいるかもしれない核兵器や福島第一原発4号機の燃料プールの方がずっと怖いと思っちゃうのは、ぼくに「常識」がないからなんだろうか。
入学式は誰のものか?という問いは、
「生徒のものである卒業式」と言う赤川次郎と基本的なところでは通じるところがある。↓
「生徒のためのものであるはずの卒業式で、管理職が教師の口元を監視する。何と醜悪な光景だろう!」(赤川次郎)という意見もあった(コチラ)。
4月30日「朝日歌壇より
口先を監視する目は若者にいかに映らむ旅立ちの日に (松山市)宇和上 正
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高橋源一郎「論壇時評」の過去分
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