2012年4月24日火曜日

延喜7年(907)~延喜13年(913) 左大臣藤原時平(39)没。 後継は弟の忠平。

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-04-24
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延喜7年(907)
・朱全忠が後梁を建て、唐が滅ぶ(五代十国時代)

この年、唐最後の皇帝哀宗は、黄巣の配下であった朱全忠によって殺害され、唐は滅亡。
以降、50年余の間、中国では小国が分立・統合を繰り返す五代十国時代となり、960年に、ようやく朱が国内を統一。
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9月
・紀貫之、この月の宇多法皇の大井川出遊に随行し、法皇の命によって「大井川行幸和歌序」という小文を作る。
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11月
・延喜通宝を鋳造。
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11月15日
・左大臣藤原時平ら「延喜格」全12巻を撰上。
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延喜8年(908)

・日照りが続き、百姓の請によって神泉苑の水関を開く。
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12月
・「延喜格」施行。
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延喜9年(909)
4月4日

左大臣藤原時平(39)、没
時平の強力な指導で延喜初年の諸政策が押し進められていたため、指導部は挫折に近い悪状況に落ち込む。
摂関家を継いだ時平の弟忠平は、延喜14年に右大臣、台閣の首班となる。
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10月
・この月、政府は、資格審査のうえ大量解雇するため、諸国に対し国内に居住する衛府舎人の住所・氏名を調査提出させる
 この締め付け政策に対し、諸国衛府舎人は徒党を組んで国府を囲み受領を凌辱するなど抵抗運動を続ける。
この衛府舎人政策で最も打撃を受けたのは、大粮米徴収権を持っていた内海諸国に居住する衛府舎人であった。
衛府舎人の肩書きを剥奪された内海諸国富豪層たちが徒党を組み、大粮米徴収を口実に国衙の正倉や運京船を襲撃して米を奪う。
これが承平南海賊の実態であり、王朝国家体制への転換に対する富豪層の軍事的抗議という点で、寛平・延喜の東国の乱と共通する。
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延喜10年(910)

この年
・延喜8年以来、凶作が続き、疫病は広がり続けていた。
また、この年はに悩まされている。
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6月
・この月半ば、宇多法皇は亭子院(朱雀院)で詩酒の宴を催し、中納言紀長谷雄に当日の記事を書かせる。

長谷雄は、この前後に、「京都洪水汎濫」の状況をまえにして、「苦雨の賦」という詩篇をつくり、京に住む人々の憂苦に思いを馳せている
長谷雄は道真失脚後、時平のひきたてで参議に列し、ついで中納言にのぼり、詩文にかんしては法皇の相手をつとめていた。

退位後の宇多は、①朱雀院(亭子院ともいう)、②河原院(故源融(とおる)の林泉に富む広大なこの別荘をその息大納言昇(のぼる)が宇多に献じた)、③六条院、④源湛(たとう)の旧宅である宇多院、⑤仁和寺内の八角円堂のそばの「御室(おむろ)」など、気分のままに移り住んでいる。
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延喜11年(911)
・この年、中国商人の来航は、最低2年以上の間隔を空けよ、との年紀制(来航の間隔を何年と指定する制度)が採用される。
もとは朝貢の間隔を定めるものであった年紀制という概念を、商人の往来に無理やり適用した。
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延喜13年(913)
・この年、宇多法皇の亭子院(朱雀院)の歌合。
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