2012年4月29日日曜日

延長2年(924)~延長6年(928) 藤原忠平(45歳)が左大臣となり忠平政権が確立する

東京 北の丸公園 2012-04-20
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延長2年(924)
1月
藤原忠平(45)が左大臣となる。忠平政権の確立
1月7日、正二位の昇叙、22日、左大臣。

藤原忠平:
元慶4年(880)、藤原基経の四男として生まれる。
兄に時平・仲平(延喜の治では時平が左大臣として権勢を誇り、醍醐天皇と統治)。
藤原道長の曾祖父。
昌泰3年(900)21歳で参議になるが、すぐに辞して叔父清経に譲り、自身は、右大弁兼侍従(太政官の事務方トップ)として出仕。
延喜8年(908)29歳、時平没の前年、参議に戻る(時平は29歳で左大臣)。
時平没と同時に権中納言、延喜11年に大納言、13年には太政官のトップ、翌14年に右大臣となる。
約10年後の延長2年(924)、ようやく左大臣となり忠平政権が確立。

昇進のテンポが鈍いことについては、醍醐天皇との関係に問題があった。
醍醐天皇は兄時平と親密であったのに対して、忠平は一貫して宇多上皇に仕え、また菅原道真とも親しかった(ある意味で敵の側にいた)。
醍醐の後宮で絶大な力をもった皇后穏子(おんし)は妹ではあるが時平に近く、時平没後はその息子たちに目をかけた。
承平6年(936)に時平長男の保忠が大納言で没したことは、忠平とその子孫にとって幸いした。

忠平は、醍醐没後、朱雀天皇が即位すると、左大臣にして万機摂行、すなわち摂政の詔を蒙ったが、醍醐の遣詔にあった太政大臣への任命はすぐには行なわれず、即位6年目の承平6年(936)になってようやく実現した。

忠平の時代(摂関体制成立期)
①摂政と関白が制度的に定着
忠平は、醍醐天皇の譲位の詔で、幼主を保輔(ほふ)して政事を摂行せよと命ぜられ、まず天皇幼少の間は摂政をおく制と、任命が先帝の譲位の詔で述べられる方式が定式化される。
さらに天慶4年(941)、朱雀天皇が元服すると、摂政を固辞し関白に任ぜられ、しかも摂政在任中行なわれなかった官奏文書の奏覧(そうらん)を復活する。
天皇大権を代行する摂政と、天皇の補佐である関白の差が制度化され、天皇幼少の間は摂政をおき、成年後は改めて関白になすパターン成立

②儀式・故実の成立
宇多朝~村上朝の間、特に忠平の時代に、朝廷での儀式の具体的な作法故実が成立し、朝廷儀礼の標準型が形成される。
儀礼が整備されるなかで、官撰儀式書のみでは規範としては不十分になり、実践のなかで細部に及ぶ行動の規範を形成し、洗練してゆく。
忠平は、本康(もとやす)・貞保(さだやす)両親王を通じて伝えられた父基経の儀礼と兄時平の説をうけ、さらに醍醐の勅命や国史・外記日記(げきにつき、太政官の外記が職務として作成した日記)などを故実とし、合理的な儀礼を定め、忠平流の儀礼体系を作りあげる。
忠平の子の実頼と師輔を祖とする小野宮流と九条流という摂関家の二つの儀礼の流派が成立していくが、いずれも、実頼と師輔に与えられた忠平の口伝と教命(きようめい)という一種の教訓を中核とした。

③摂関政治を支える貴族連合体制の成立
醍醐朝では、天皇主導のもと、氏長者忠平を擁する藤原宗家・天皇の外戚家(右大臣藤原定方)、皇親の協調体制がみられ、その後も実頼や、村上天皇の皇后安子(あんし)と結ぶ師輔へ連合体制は継承される。
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延長3年(925)
6月
・皇太子慶頼(やすより、5歳、亡くなった保明親王の子)王、没。
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10月
・寛明親王(保明の弟、のちの朱雀天皇)が立太子。
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延長4年(926)
この年
・契丹が渤海を滅ぼし、937年に遼と称する。
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・穏子が、天皇の第十四皇子成明親王(後の村上天皇)を生む。
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延長5年(927)
この年
・興福寺僧寛建、五台山巡礼許可を朝廷から得て、この年、出航して福州に到着するが建州の浴堂で没す。
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12月
・藤原忠平ら『延喜式』全50巻を撰進。

『延喜式』編纂・施行の複雑な背景
延喜5年、編纂に着手、延長5年に完成したが、施行は廉保4年(967)で完成以来40年が経過している。
その理由は、『弘仁式』『貞観式』に取捨選択を加え、式の集大成を図ったために、完成後も編纂が続けられ、また天徳4年(960)に内裏が全焼し、編纂事業に大きな打撃となったためと推測される。
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延長6年(928)
6月9日
・小野好古、大蔵少輔に就任。
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